麦の穂を摘む(2008 礼拝説教・マルコ)

2008.10.19、明治学院教会(130)聖霊降臨節 ㉔

(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん75歳)

マルコ 2:23-28

”そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから人の子は安息日の主でもある。」”(マルコによる福音書 2:27-28、新共同訳)

1.人間の主体性(自由)が大事なのか?
 法(戒律、律法)を媒介にして人間は人間になるのか?
 この問いは普遍的。

 ゴミを捨てる中学生をゴミを拾う仲間へと変えた自治会のお世話好きなおばさんの話。
『神を探し求める − 聖ベネディクトの戒律を生きる』(シトー会聖母修道院出版、デュ・ワール著)。


 戒律は、体と精神と霊との均衡を保つ。イエスも神と隣人への愛の「戒め」の大事さを語る。両者共に重要。

2.しかし、ここ(マルコ福音書 2:23-28)では、人間の主体性(自由)が「安息日」(律法)を凌駕すべきだ、とイエスは徹底して語る。

 パリサイ派は「安息日」の39カ条の禁止条項(一切の労働を含む)と324の禁止行為(ミシュナ、口伝律法の集成。種蒔くこと、耕すこと、刈り入れすること)を盾に、イエスの弟子の「麦の穂を摘む」を責める。

 他人の畑の麦の穂を摘むことは、貧しい者を救済するために律法で許された行為。

”隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。”(申命記 23:25-26、新共同訳)

「穂摘み」が安息日規定に抵触するか否か。

 その背景にはファリサイ派が蔑んだ地の民(アム・ハー・アレツ)の現実があった。

 彼らは、非難されても口を閉ざして身を避けた(主により頼んだ)人々。

 虐げられた者は、沈黙して、抵抗しない。イエスは、麦の穂を摘むことが労働になるかどうかの悪意の水準ではなくて、法が現実の生きている人間を苦しめる事実を問題にする。

 貧しくて食えない人々の現実に関心を抱かない感性で律法を行使する、そのありようを問題にしている。むしろ挑発的に、27−28節の命題を語る。

”そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから人の子は安息日の主でもある。」”(マルコによる福音書 2:27-28)

3.25-26節(ダビデの故事。サムエル記上 21:2-7、ダビデが緊急の時、祭司しか食べてはならないパンを食べた、というお話は初代教会の伝承)は、律法的理論の水準の中だけでの弁明。初代教会の論理。これでは、パリサイ派を打ち破ることはできない。

 イエスの見解は、27-28節にある。恐ろしくラディカルな言葉(マタイ・ルカは削除)。

”「安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるわけではない。だから、人の子はまた安息日の主でもある。」”(田川建三訳、マルコ 2:27-28)

 という言葉は、イエスの真正の言葉。人間の尊厳や自主性を破壊するような形で、法を持ち出す人には徹底的に批判する。宗教概念や法に囚われない人間の現実を見る。

 ある意味では、人間を底無しの深淵に突き放すような思想を語る。

 人間を徹底的に問い直してみる。人間が永遠の課題に放り出される。人間が◯◯のためにあるのではない。◯◯に各人身近なものを入れてみよう。

4.ここで問題なのは、そもそも他人の畑で麦の穂を摘まなくては飢えが凌げないほどの人間の現実があること、それが一番切実な問題である。

 新約聖書学者・L .ショットロフは「麦の穂を摘む」という背景には、ローマ帝国の植民地であったパレスチナの「飢えの問題がある」といっている。弱者がいるという事実。

 イエスはその状況の中で、パリサイ派の人たちに「この人間の現実がわからないのか」と問うている。

 現代の世界を覆う貧困と呻吟する民衆の中に「麦の穂を摘まざるを得ない」人たちとその側に寄り添い、現代の「パリサイ」を鋭く問うイエスを覚え、従って行きたい。

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