神のデッサン(2008 礼拝説教・マルコ)

2008.9.7、明治学院教会(126)聖霊降臨節 ⑱

(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん75歳)

マルコ 1:16-20

”イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。”(マルコによる福音書 1:16-20、新共同訳)


1.このテキストの特徴は、イエスが弟子を選んだという事実であって、その逆ではない、ということです。聖書の一般論から言えば、ここは「神の選び」の物語です。

「神の選び」には三つの特徴があります。

(1)神が主語だということです。旧約聖書のアブラハム、モーセ、サムエル、アモス、イザヤ、エレミヤなどの召命記事を思い起こします。

(2)「選び」は何の功績にも因(よ)らないことです(申命記 7:7、Ⅰコリント 1:27)。ガリラヤの漁師たちもそうでした。

(3)招きの言葉は「ついてきなさい」だけであって、どこまで従うか、その徹底の度合いなどは問題になっていません。招きの「恵み」としての性格です。

2.マルコの物語には、独特な文章の個性があります。

 非常に単純な文章です。小学生の日記のような書き方です。マルコにとって、ギリシア語が母国語でないことに因るぎこちなさと同時に、大事なことだけを記し、余分なことは書いていないのです。

3.「二人はすぐ網を捨てて従った」(18節)というのは一大決断ですから、そのような決断に至った状況を小説のように書いても良さそうです。選びに至るまでの個人史や心情です。

 しかし「イエスが招いた」そうして「従った」と、そのことだけを描いています。

 根底にある問題にだけ目を留めているのがこの伝承です。

 マルコは「すぐに」という短い言葉を使います。どちらかというと稚拙な文章表現だと言われています。

 原文では”エウチュス”という言葉が1章だけで11回(10, 12, 18, 20, 21, 23, 28, 29, 30, 42, 43節)使われています。

 これは、ものごとが単純に神のイニシアチブで進んでいく様を表現しています。

 神の描く一本の線を示しているようです。

 シモンやアンデレの気持ちというものは描かれていません。またその場の状況も描かれておりません。それはいろいろあったでしょう。しかし、それを上回る出来事だけが描かれています。

 一番底にある、神のご計画だけをマルコは描いています。宣教の業を進めるのは、神ご自身であることだけが浮かび上がっています。

 一人の人間の生を表面のドラマとして見れば、神の描く線はその人生の背後に隠されてしまいます。しかし、その背後に隠されている神の描く線からその人を見ること、また自分をそのように見るのが信仰です。

4.ある葬儀での感動。

「(父は)いろいろ社会的な働きもしました。しかし、一人の罪人が救われた、その事実だけを語ってください」

 という喪主の子息(牧師)の言葉。

 単純な線でデッサンを描くような作業だった。恵みだけを辿(たど)れば良い。

5.19世紀の後半を生きたフランスの画家・ドガの有名な言葉。

「デッサンとは物の形ではない。物の形の見方である。」

 デッサンは、そこにある物をどのように見るか、という精神や心の軌跡だということです。

 弟子の召命物語は「神が招いた」というその出来事の線だけが描かれた、絵のような物語です。

 私たちも、神の招きの線だけははっきりさせて、生きて行きたいと思います。

▶️ 弟子たちを選ぶ(2009 小磯良平 ⑰)

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