2008.8.24、明治学院教会(125)聖霊降臨節 ⑯
詩編 139:1-18
1.詩編138編から145編まで「ダビデ詩集」と名付けられている。
ダビデ(理想の王)からヤハウェ(主)への信頼の一群の詩歌。詩編139編はその一つ。
これに因んだ讃美歌が「讃美歌21」には9曲ある(95, 166, 212, 222, 370, 434, 435, 509, 547)。
例えば、
”あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。”(詩編139編13節)
は「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた」(エレミヤ書 1:5)を連想させる。
讃美歌21-547番「生まれるまえから」は誕生日の歌である。
2.139編は6つに区分される。
今日は前半4つ、18節までを取り上げる。
(1)1節〜2節
1節の「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる」という告白はこの詩の枠組み。「究め、知る」(探る、認知する)は、この詩のキーワード。裁判で裁判官が被告を知るために、調べ尽くすという意味を背景に持つ。
(2)3節〜6節
「座るも立つも」「歩くのも伏すのも」(3節)は人間の行動全体を表す表現。神は、人に関心を持ち、人生のあらゆる歩みに同伴して守ってくださる。
「主よ、あなたはすべてを知っておられる」(4節)と告白されている。
5節の「手をおく」は、祝福。聖書では、神の関係は、神の働きですが、抽象的にではなく、手の働きになぞらえています。手を取る、手が届く、手取り足取り、手に汗を握る、手をかける、手を入れる、手を打つ、手を貸す、手を煩わす、手当てをする、手間をとる、手を繋ぐ、という我々が日々経験をする人との繋がりのしぐさに擬(なぞら)えて語られる。
(3)7節〜12節
神がどこにでも居てくださるという信仰の表明。「霊」は神との生きた関係。9節には神話的背景あり。
(4)13節〜18節
創造者なる神への讃美。詩人の人体解剖学的知識が前提されている。「わたしの骨も隠されてはいない」(15節)。
存在そのものへの「感謝」。「果て」は「わたしが終わり」(18節、関根正雄訳)と訳すと「わたしはなお、あなたの中にいる」の意味がはっきりする。
3.詩人は、創られた者としての自分の終わりを自覚し、なおその上に、神が自分と共に居給うことを告白する。
詩人は目に見える創造の世界の終わりから、その先に救済の世界の恵みを信じて、告白している。
”わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです”(Ⅱ コリント 4:18)
4.北海道の教会では、8月第二日曜に、どこの教会も永眠者記念礼拝が行われている。本州とは異なった教会暦を持っている。盆に合わせて里帰りする人に合わせての習慣だという。
旭川豊岡教会の礼拝に出席したが、たくさんの遺影を並べての礼拝だった。遺影を見ていると、その人の生涯の見える部分が想像できる。
地上の生涯は、見える部分で構成される。しかし、もう一方に、私たちには、見えない部分というものをそれぞれが与えられている。それは神のみがご存知である。
そこがあるので、いつまでも対話があり、新しい記念の意味がある。
125_20080824◀️ 2008年 礼拝説教