2008.7.6、明治学院教会(120)聖霊降臨節 ⑨
(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん74歳)
マタイ 7:1-11
”求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。”(マタイによる福音書 7:7、新共同訳)
1.「求めなさい。そうすれば……」(マタイ 7:7)
これはマタイ・ルカに共通なので「イエスの語録集(Q)」で伝わったイエスの言葉です。
マタイとルカは同じ言葉に自分の文脈の主張を盛り込みました。
マタイは「山上の説教」(5-7章)で用い、
”「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、こららのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな”(マタイ 6:33-34)
と、求めるべきは「神の義」でありつつ、「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない」(マタイ 7:11)という「よきもの」に重点を置きました。
「義」は神様との関係ですが、関係の結果をも含めて、恵みの出来事「良い物」(神の御旨に適った実践)を「求めよ」との壮大な促しです。
2.求める者に聖霊を(ルカ11:13)
ルカは「求めよ」を「主の祈り」を熱心に祈ることに結びつけています(ルカ 11:9-11)。
祈りは神との関係です。神との関係を表すのが、聖書では「聖霊」です。
ですから、ルカが「求めよ」という時には、「聖霊を求めよ」ということになります。
「聖霊が祈りを成就する」というのが、ルカの主張です。「聖霊を求める」ことが祈りの根本なのです。ですから、ルカは、マタイが「良い物」と言っているところを、はっきり「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ 11:13)と言っています。
「義」と「聖霊」との手がかりの違いはあれ、共に、「求める」とは究極において「祈りを含めて実践」であり、「祈りの基礎としての聖霊」であります。
マタイの「求めよ」は”外”に向かい、ルカはより”内”に向かっているとも言えます。
3.日常の体験
マタイは「パンと石」(7:9)「魚と蛇」(7:10)で喩えられた親子関係を通して「求め」の結果を示します。パンを求める子供に石を与える親はいない、という経験は、昔から変わらないものだと思われます。
大事なのは日常の体験が「神の事柄」の比喩になっている点です。体得的な事柄の中で、「神」はご自身のことを気付かせられます。また、その経験の中にこそ、宿り給うということが、大切なことです。
4.本当に求められたら断れない
私たちも、本当に求められたら断れないで、自分でもお人好しだなと思うくらい、引き受けてしまう、そんな現実があります。
その経験から類推して、「求める」ことに切に生きて、行き詰まりや、閉塞した状況を破って、恵みに応える者でありたいと思います。
内面的祈りの方向に向ければ”ルカ的”であり、実践の方向に向ければ、”マタイ的”であります。
5.友人・金井愛明さん
献体が最後で、告別・追悼式はしないと遺言を残して帰天した友人・金井愛明さんは、マタイ的な実践を生きた「釜ヶ崎」の聖者でした。
(サイト記)本文中の「金井愛明(あいめい)さん」は、健作さんの同志社時代の同級生、釜ヶ崎伝道所牧師、西成教会牧師兼任、釜ヶ崎いこい食堂運営、炊き出し活動等。2007年11月、76歳にて死去。


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