聖餐は”どなたでも” − スティグレール『愛するということ』を読んで(2008 宣教学57)

2008.5.25、関西神学塾、「岩井健作」の宣教学(57)

(明治学院教会牧師 健作さん74歳)

1.ちょっと古典的なコマーシャルだが「百円でポテトチップスは買えますが、ポテトチップスで百円は買えません」というセリフがあった。それに乗って言えば「宣教で伝道はカバー出来ますが、伝道で宣教はカバー出来ません」というのが、『岩井健作』の宣教論の特徴であると思っている。

 伝道にはどうしても「改心」「入信」が伴う。

 宣教はそれも含むが、それが決定打ではない。むしろグローバルな意味で「共に生きる」ことの質が問題になる。「共生」には垣根がない。どれだけの射程を持つかがたえず検証される。その検証の尺度は「イエスの生涯、言葉と振る舞いを中心にして、聖書への歴史批判的検証」に置かれる。

 それに対して「伝道論」は中心が「神の啓示の出来事に置かれ、イエスが唯一の啓示者であり、その事実への信仰的告白が基礎となる」。論理はそこからのみ展開される。

 この両者がどう対話するかはなかなかの課題であり、今は、様々に試みが行われている、と述べるだけにとどめておきたい。

 後者(”伝道”)の場合、それを「啓示神学」と呼ぶならば「神の出来事からの基礎付け」が第一義になるので、神学と諸学とは、神学における「位置付け」が問題であって、基本的「対話」は持ち難い。

 前者(”宣教”)の場合、「イエス」を中心に据えるので、その論理を広い意味で歴史学としての聖書学を媒介とした思考を基礎におく。諸神学を歴史や思想の文脈の中での関わりとして扱うので、諸学はその歴史的文脈で「対話」になり得る。そこが伝道論中心の論理との折衝の地平でもある。

2.例えば、日本基督教団の問題に置き換えて見ると「教師退任勧告」を政治的に決議した根拠は、「教憲教規」違反という事であるが、その底には「洗礼から聖餐へ」という秩序を崩してはならないという神学がある(芳賀論文「福音と世界」2008年5月号)。

「聖餐から洗礼」への方向と「洗礼から聖餐」への方向は併存して論議を交わし得る課題だと私は思っている。

 聖餐を(貧しい人達と)「共に生きる」という歴史の現実や、イエスの生涯と振る舞いから”切り離して”見ることは、今日「貧しくされた人々の問題」とかかわらないことでもある。「聖餐」を守ることは、神学的聖餐論の観念性を克服することであり、宣教学の課題でもある。

3.最近で出合った書物の感想を記し、そこで聖餐の課題を再考したい。

 ベルナール・スティグレール『愛するということ 「自分」を、そして「われわれ」を』(新評論、原著2003 邦訳 2007.7.31)

 著者は1952年生まれ。テレビ技師の父と銀行員の母の元で育つ。68年学生運動に巻き込まれ高校中退。共産党に入党、さまざまな職を転々、70年代左翼の行動様式の農業労働者となるが干ばつで頓挫。76年党を脱退、ジャズ・カフェを開き、ジャズファンの哲学者ジェラール・グラネルと出会う。店の経営は行き詰まり、酒と薬に溺れる、インフレ抑制で銀行融資が受けられず、銀行強盗を引き起こす。禁固5年。投獄を転機にして、グラネルの力添えで独房で哲学に没頭、起死回生を果たす。トゥールーズ大学で通信教育で学位を取得。出所後グラネルの紹介でデリダのもとで博士論文を執筆。パリの国際哲学コレージュで多くの哲学者に薫陶を受け、88年よりコピエーニュ工科大学で教鞭、国立新図書館のアーカイブ構想に携わり、後国立視聴覚研究所副所長、音響、音楽研究所所長を歴任。2006年ポンピドゥーセンター文化開発ディレクター。行動する哲学者。「哲学することは市民となることである」という。

 日本語に訳された本(本書の他)は『象徴の貧困』(訳2006) 、『現勢化−哲学という使命』(訳2007)。訳者はいずれも、ガブリエル・メランベルジェ+メランベルジェ眞紀、共訳。上智大学教授と講師。専門はフランス現代思想。

 この講演はフランス社会が底しれない不安と閉塞感が漂う中でなされた。彼は繰り返し説く。

 自分というものは初めから「ある」か「ない」かではない。自分は自分に「なる」プロセスなのだ。プロセスは実体ではなく、時間経過であり、「私」はその途上でしかない。自分の定義は、家族、友人、学校、職場、地域などの集団に属し、役割を負うことで、他者によって事後的に認証される存在なのだ。「私」が機能する集団は「われわれ」として、共通の財産に与かりながら、それをどう特異に運用できるかによって「私」が他とちがう存在であることが明らかになる。「私」は複数の集団に属するから、それぞれの場のグループの要請に応じていると一貫性を欠いたり幾つもの顔を持つ、様々な変化を自分の歴史とし何とか話を編集し物語を紡いでゆくことが「私」の個体化のプロセスなのだ。

 ところが現在、その「私」と「われわれ」を成り立たせることが非常に困難になってきている。なぜなら今日の市場経済は、世界中の人は消費活動をシンクロさせることでグローバルスタンダードの消費者を作りだそうとしているからである。しかも「あなただけがオリジナルな」商品を買いなさいと彼/彼女らをけしかけ、消費単位を「自分」という最小に切り詰めることで、まさに消費の規模を拡大したのである。視聴覚メディアは相互に模倣し合う大衆をつくりだし、世界標準規格の成員の代替可能性を原理とする社会を生み出し、自分への唯一性への敬意がはぐくまれない様な、意識のシンクロ化が進む仕組みを作り出した。

 そこでは「自分」や「他者」や「われわれ」を愛する時間が奪われていく。

 スティグレールは文化産業(テレビ)によって個々の時間を生きることが出来にくくなり、われわれの過去把持が日々規格化されてゆけば、過去の蓄えを基に期待(不安)を作る未来予持もやがて画一的になっていくだろうという。本来の未来(予定外のことや例外的なものに開かれた時間性)が生まれて来なくなる。テレビを初めコンテンツ産業が差し出す時間的商品のあり方が「注意力」という社会を生きていく上で欠かせない能力の習得において悪い影響を与えており、それにより収益を上げるのであれば、産業の構造そのものを批判検証しなければならない、という。

 産業家も行政もその構造改革を行わない。市民が自己の福利を優先しそれに気付かない「自己の魂への配慮」の怠りを、彼は憂える。

 グローバル経済の中で「生き残る」ことをのみ思考するのではなく、「怠り」への後ろめたさを覚え、恥じ、自己嫌悪から始めて、欠けている愛を希求することの大事さを訴える。

「愛国心」などでシンクロニックな「われわれ」を作ることは「私」を無くすので本末転倒である。フィリアとは全く異質な他者と公共の空間で言葉を交わし、不調和を微調整しながら折り合い、何とか共生しようとする意志である。「われわれ」の成員になれるのは自分の中の矛盾や弱さを引き受け、自分のうちの未知なる他者と辛抱強く付き合える「私」たちのみであろう。

 愛することは「自分」との、そして「われわれ」との関係を築くことである。それは社会の中で時間をかけて育まねばならない「存在の仕方」である。「愛するとは、生のもっとも洗練されたかたちなのだ」。

 以上が、およその本書の問題意識の素描である。

4.この本は二部から構成される。

 第一部は「本源的ナルシシズムの破壊」。

 これは個体化の衰退を「本源的ナルシシズムの能力が構造的に剥奪されている」ことと見る。人間の生命原理としての魂、心(プシュケー)の機能に欠かせない構造としての自己愛を根底に据えて論議をすすめる。彼はフロイドのナルシシズム理解はとらない。ジャック・ラカン(フランスの精神分析学者)の「自己愛も本源的に他者に向かう方向性を孕む」理解に近いと自ら言う。ここでは個体化の破壊を扱う。

 第二部は「心的かつ集団的個体化のプロセスの破壊と『悪』について」。

 ここではシンクロニゼーション(共通な時間を生き、同調し、象徴的同じ時間に参加するプロセス)とディアクロニセーション(共通から離れて(dia) 自分の時間を生きるプロセスを示す)の問題を扱う。

 この二つのプロセスが組み合い拮抗することで社会は構成される。しかし、大量消費にマーケティングが大規模なシンボルを配給しつづけて、ここの特異性つまりディアクロニーを失わせていく状態が出来ている。その中で、自分が社会の全体像を見渡せず取りあえず小集団を作り、それが排他的グループとなり人間の原子化を招く。

 この中で、彼は宗教の評価をしている。ミサ、モスク、シナゴーグでは、自分の唯一性(特異性)に責任を持つ人間として扱われ、有責性(応答可能性)のうちに位置付けられる。互いにシンクロする礼拝者は個々の根源的ディアクロニーな存在とされる。シンクロし得る人は、そもそもディアクロな人なのである。シンクロな集まりがディアクロを強化している、とその評価を語る(p.93) 。

 スティグレールが現実の教会の実体をどう見ているかは分からないが、「礼拝」への参加の仕方において意味のあることである。「信仰告白」における一致、などと日本基督教団の現在の執行部は唱えているが、「シンクロ」と「ディアクロ」の現代的問題に立ち向かえる質を、そもそも「礼拝」が持っているのか。例えば、聖餐の問題に還元するならば、聖餐は最もこの「ディアクロ」と「シンクロ」の問題が自分の特異性に責任を持つ応答可能性として際立つ出来事である。受けるか、受けないか、その応答性は参加者各人に委ねられる。それをあらかじめ「受洗」の「応答性」に限定してしまうことは、教会の社会との通路を「改心」「入信」だけの歴史への接点に狭めてしまう。

「聖餐」の問題は、現代の先端的思考をなす哲学との対話においても、「洗礼から聖餐へ」の方向と「聖餐から洗礼へ」の方向とを明確に抱え込んで行かなくてはならない。

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