キリストの僕になるということ(2007 礼拝説教・ガラテヤ②)

2007.9.9、明治学院教会(86)、聖霊降臨節 ⑯

(牧会49年、単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん74歳)

ガラテヤ 1:6-10

1.ユダヤ教徒だったパウロは、かつて「律法による救い」を本気で実践していました。

「神の戒め(律法)」を守り切ることによって、神との関係(救い・パウロの表現では”義とされること”)を得ようとする生き方でした。

 ところが、どんなすぐれた人間も神の前では自分の力で「義」を表現できないことを認識したのです。

 これがパウロにとっての「罪(神との関係の喪失)」の自覚でした。

「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただ、イエス・キリストを信じる信仰による」(ガラテヤ 2:16)という認識に立ちます。

 このことの転換は「パウロの回心」という大きな出来事でした。

 律法の神の信奉者から「キリストの僕」への転換です。

2.「キリストの恵み」(ガラテヤ 1:6)においては、人間の努力・功績・出自・資質は徹底して相対化されて、人間の存在価値は「恵み」によって、みな同等に根拠づけられている。

 それ以前、パウロは「ユダヤ人は律法を持つ民族だ」との優越感に立っていました。この優越意識が根底から砕かれたのです。

 ガラテヤ 3:28「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく」はそのことを表現しています。

 一般的言葉で言えば、民族差別の根拠が撤廃されたのです。ここがガラテヤ伝道そして教会の根拠でした。

 パウロの伝道の前提は、ギリシア人、つまり異邦人もユダヤ人も、神の前では同じ救いの条件にあるということでした。

 具体的論点は、異邦人がキリスト(つまり神の無償の恵みの徴)を信じて教会を形成するに当たって、ユダヤ教の律法による「割礼」を「受けなくてもよい」ということでした。

 しかし、このことがガラテヤでは「ある人々があなたがたを惑わし」(7節)たことによって、崩れ始めたのです。

 この箇所は、それに対する怒りの文書です。しかし、「なんとかして人の気に入ろうとしている」(10節)は、どちら側の論点にもなります。

「キリストの僕」がそれを断ち切ります。

3.今、私たちの社会では、多民族共生ということが、どんなに大切であり、またどんなに難しいことかを体験しています。

 頭でわかっても、生活意識に染み込んでいて、民族差別が社会の隅々にまで行き渡っています。国権力者はせっかく民族差別をなくす方向の考えの基礎を持っていた「教育基本法」を改悪して、いわば「愛国心」を鼓舞する思想(民族差別の温床となる)を法体系に盛り込んでしまいました。

 聖書的表現では「パウロの福音理解からの律法への逆行」です。

4.「キリストの僕(本来は伝道者・使徒の意味)」は、律法的生き方への対抗軸としての意味を持ちます。

 現代において「律法的」を翻訳すれば、他者排除を意味していないでしょうか。

 パウロをこのように読む必要があります。


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