“否”から語り始める(2007 礼拝説教・ガラテヤ①)

2007.9.2、明治学院教会(85)、聖霊降臨節 ⑮

ガラテヤの信徒への手紙 1:1-5

1.「ガラテヤの信徒への手紙」を学びます。

 ガラテヤは小アジア(今のトルコ)の中央部の地帯、当時、ローマの属州。パウロの第2宣教旅行(聖書の付録地図参照)の時に設立されたこの地方の諸教会(ガラテヤ 1:2)への手紙。

 パウロ真筆7つ中、2番目の書簡である。

2.執筆の事情。

 パウロがガラテヤを去った後、エルサレム教会のユダヤ主義者が教会に入り込み、パウロの「使徒職」を批判し「信仰者は割礼を受け、律法を守らなければ真の救いが得られない」と説いた。

 ガラテヤ教会の人々は、その勢力を恐れ、「ほかの福音(1:6)」へと心動かされて行きつつあった。この状況を聞いたパウロ(多分コリントで)は、自分が伝えた福音(律法からの自由の福音)に踏みとどまらせるため、激しい情熱をもってこの手紙を書いた。

3.パウロとは誰か。

 初代教会の伝道者。

(1)小アジア、キリキアのタルソスで、ローマ市民権を持つユダヤ人家庭に誕生。ユダヤ教・ファリサイ派の教育を受ける。

(2)ヘレニズム文化の都市で、ギリシア語に堪能、ギリシア的素養を身につける。「律法の権威を認めない」ヘレニズム・ユダヤ人キリスト者であるステパノの一派のキリスト教徒を迫害した。後に、回心、伝道者となり「使徒」として異邦人伝道に派遣される。

4.パウロの劇的な回心(使徒言行録9章参照)。

 パウロは、律法の完全遵守という自力の強い生き方を貫くことで、神に受容される関係を「救い(神の前に義とされる)」と理解していた。

 しかし、それが人間の力による救済を目指すものであることに目を開かれた。律法を貫く強い生き方に破綻し(ローマ7章)、それと決別する。

 彼は「救い」は自力による獲得ではなく、神の側からの介入の事件(恵み)だと理解する。

 ただ十字架上に殺されることしか知らない、この上もなく弱いイエスにおいて、自己を啓示(表す)する神と出会うことによって回心が起こる。

 弱さにおける神を「十字架のキリスト」と捉え、それにのみ依り頼む神関係を「信仰による義」(2:16)と表現する。

5.手紙の論争的性格。

”パウロ、使徒。人からではなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人のうちから甦らせた父なる神による(使徒)。及び私とともにいるすべての兄弟たち。ガラティアの諸教会へ。”(ガラティアの諸教会へ 1:1-2、田川建三訳)。

”人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。”(ガラテヤの信徒への手紙 1:1-2、新共同訳)

 彼の使徒職は人間的権威(エルサレム教会の指導者たち)に依存しない。暗に割礼の実施を仄めかす攻撃には「譲れない」という気迫がある。

 だから「否」から語り始める。

6.「関東大震災 朝鮮人虐殺84周年」集会に参加。

 あの時点(1923年)で、柏木義円(安中教会牧師)は、朝鮮人虐殺を国家主義・軍隊教育の余毒(後々まで残る害毒)、「日本人は本当に人の生命の尊いことを知らない」と「否」を述べ、痛烈に国家批判の論壇を張った。

 現在もこのことへの罪責は言い表されていない。

 根本については、大きく「否」を述べる激しさが必要ではないか。


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