行いを伴う信仰(2007 礼拝説教・ヤコブ)

2007.4.22、明治学院教会(71)、復活節 ③

(牧会49年、単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん73歳)

ヤコブの手紙 2:14-26

1.聖書にある「あなたの父母を敬え」(出エジプト 20:12)は、儒教的な意味で、年長者を敬う秩序の倫理とは全く異なった意味を持つ。

 これは「モーセの十戒」の第5の戒め。

 律法の第1戒の「神を敬う」(出エジプト 20:3)を具体化する生きた形である。

”あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。”(出エジプト記 20:3、新共同訳)

 神との関係の投影を表している。人と人(行い)、人と神(信仰)は共に人格的な事柄で、切り離せない。

「行い」と別に「信仰」があるのではない。

《息子の入信を契機に、年老いた母がその人格的密接さから教義的理解を超えてカトリックに入信をしたエピソード。なだいなだ『神、この人間的なもの―宗教をめぐる精神科医の対話』(岩波新書 2002)》

2.ヤコブの手紙の著者の相手方は、「信仰を持つ」(ヤコブ 2:14)、「信仰がある」「信仰を見せる」(2:18)と、「信仰」を自分の持ち物か信念のように表現をする。

 それに対して、ヤコブの手紙の著者は〈「神は唯一」だと信じている。結構なことだ。〉(ヤコブ 2:19)と、それを認めつつ、宗教的信念の堅持が他の人との関わりで意味がなければ「何の役に立つだろうか」と言う。

 アブラハム(イサクを献げる)と、ラハブ(娼婦ラハブの転機。ヨシュア記 2:3以下)の故事を挙げて、説得し、これを「信仰が行いによって完成された」(ヤコブ 2:22)と締め括る。

3.「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」(ヤコブ 2:24)という言葉は、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ 3:28)とのパウロの福音理解に問題提起をする言葉。

 ここを「行い」に踏み出さない人を戒める意図だとする考え、さらに踏み込んで、律法そのものを軽んじることへの警告だという意見に分かれる。

 ヤコブは律法の意味を積極的に捉える。

 行いを伴う信仰というのは、行いというアクションが、信仰という直接には伝わらない真理を、電気のスパークのように、衝撃的に相手に伝達することにあるのだという。

 もちろんパウロも、行いを否定してはいない。

”愛の実践を伴う信仰こそ大切です。”(ガラテヤの信徒への手紙 5:6、新共同訳)。

 ヤコブの手紙の著者は、信仰から行いへ、という方向に止まらない。

 人は初めから関係存在。

 人から人への感化を通して、信仰の真理は生き伝わる、と説く。

4.私たちの中には、共に生き、何か行動しつつ、誰かと一緒に生きようとする力が恵みの賜物として与えられている。

 もちろん「罪」の力がそれを阻んでいるのも事実。

 しかし、その赦しは「行い」に立ち上がった時に働く赦し。

「自由をもたらす完全な律法」(ヤコブ 1:25、2:12)という表現にあるように、律法のモチーフを、ヤコブの手紙の著者は大切にする。

5.今の世界のキリスト教の体制の問題は「共生」とは逆の方向が主流。

 それに抗う身近な例も多い。例えば「止揚学園」を囲む人たち。

6.自分ならではの奉仕の場というものを、それぞれが与えられている。

 奉仕の場は、自己実現の場ではなく、自分本位の捨て場。

 その場を失ったなら、信仰そのものが観念的になり、独りよがりなものになることを覚えたい。


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