古くて新しい戒め ”殺すな”(2007 礼拝説教・ヤコブ)

2007.4.15、明治学院教会(70)、復活節 ②

(牧会49年、単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん73歳)

ヤコブの手紙 2:8-13

1.「自分を愛するように隣人を愛しなさい」は、旧約聖書、律法の書「レビ記」にある。

 「ヤコブの手紙」の宛先の諸教会は、このことを周知していた。

 かつ、イエスの律法の要約(マルコ 12:32-33)も、パウロの律法の積極的まとめ(ガラテヤ 5:14)も熟知していた。

”「先生、おっしゃる通りです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」”(マルコによる福音書 12:32-33、新共同訳)

”律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。”(ガラテヤ信徒への手紙 5:14、新共同訳)

2.ヤコブの問題提起とは、この熟知の中で、教会で「人を分け隔て(差別)する」(ヤコブ2:1-4)矛盾がまかり通っているという点にある。

「頭隠して尻隠さず」。

 これは、極めて現代的問いでもある。

 口で平和、生活や行動では戦争加担、という構造をいう。

3.なぜそうなのか。

 一つの鍵は、ヤコブ2:10節の「隣人への愛」は「律法全体」を象徴化しているが、「隣人への愛」は律法の具体性を網羅できないことに気が付いていない点にある。

 隣人の主観的理解は個々の戒めの内実に抽象化を起こす。矛盾は免れ得ない。

「律法を守っている」といった、誇り・完結性・抽象性が落とし穴を作る。

4.ヤコブの律法理解はパウロとは異なっている。

 パウロは「律法によっては罪の自覚しか生じない」(ローマ 3:20)という。

 ヤコブはそこを超えようとする。

 ヤコブには「律法は救い」だという理解がある。

「自分のように隣人を愛する」は、無に等しい自分が、神の愛に受け入れられ、愚かな存在がなお赦されているゆえに、戒めへの応答の存在として肯定されている。

 救いの奥底は倫理にまで貫徹されている。

5.ヤコブ2:11節の「姦淫するな」と「殺すな」には固有な重さがある。

 現代でも、差別問題に取り組むといえば、具体的事象に関わる以外にない。身分差別・民族差別・性差別・障害者差別などはそれぞれ固有の分野。さらに民族差別では、少数民族・在日・沖縄・アイヌ(今週も私はふとしたきっかけで学びを深めた)などがある。

”「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になるのです。”(ヤコブの手紙 2:11、新共同訳)

6.ヤコブの著者は、そこで一つでも落ち度があったらどうするのか、という問いを投げかける。 

 ヤコブは何故「人殺し」にこだわるのか。以下は凄い実情を描写している。

”あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。”(ヤコブの手紙 5:5-6、新共同訳)

 別の書簡には「兄弟を憎むものは皆、人殺しです」(Ⅰヨハネ 3:15)という過激な表現もある。

 矛盾への鈍さが指摘される。ヤコブはそこを悲しむ。13節は厳しい。

”人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。”(ヤコブの手紙 2:13、新共同訳)

 神が、世の貧しい人を憐れまれたように、憐れみが裁きに打ち勝つことを信じることが、この段落の最後を締め括る。

”あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。”(ルカによる福音書 6:36、新共同訳)

7.「殺すな」(申命記 5:17)の直訳は「おまえが殺すことはありえない」となり、神の信頼・命の肯定を表す。

 ヤコブは、一人が多数の者に殺される描き方をする。

 十字架のイエスを連想する。

 しかし、ここを通じて「命の逆説」が示され、救いが成就する。

 歴史とはこういうものか。

 今、理不尽に命を落としている世界の人々を思う。憲法9条2項を蔑(ないがし)ろにする日本はどちらに進むのか。

 祈り。

 限りなく「殺すこと」を認めてしまっている文明の中の私たちを憐れみ給え。


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