常に喜べ(2007 礼拝説教・フィリピ・阪神淡路大震災から12年)

2007.1.14、明治学院教会(59)

(阪神淡路大震災から12年、牧会49年、
単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん73歳)


フィリピ 4:2-7

1.フィリピの信徒への手紙は、三つの違う時点で書かれた手紙が一つに編集されて、今日に伝えられたもの。今日の 2−3節、4−7節は別々の手紙の断片。

2.2−3節は、たぶん抗争か確執の関係にあった二人の婦人に対する「同じ思いを抱け」という勧告。

 パウロはこれを教会全体の問題として捉えた。二人は教会に影響力のある「強い」人たちであった。「福音のために」「共に戦った」は過去のことではなく、パウロの期待。

”わたしはエポディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。”(フィリピ 4:2、新共同訳)

「同じ思いを抱け」は「同じ考え方」ではない。イエスが十字架に向かった、へりくだりの手本であるキリストの低い姿と「同じ思いを」の意味。

「キリスト論」、他の言葉で言うならば「イエスとは誰か」を思考すること。

3.3節の「協力者」は「くびきを共にするもの」という意味。

”なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。”(フィリピ 4:3、新共同訳)

 どんな運動にも「確執・亀裂」がある。最終的には「神のみがその労苦をご存知だ」という思いを抱いて忍耐する。それはまた「イエスの十字架の死に示された出来事」(フィリピ 2:8「くびき」の内容)への繋がりを悟ることである。

「この二人の婦人を支えてあげてください」(3節)は「強い者」が支えられる立場になるという逆説。このテキストの読みどころ。「教会の逆説」がある。

 私がたいへん尊敬していた信徒のひとりY(山下長治郎)さんは、「自分にとって教会とはYがYになるところだ」と言われた。心に残る言葉であった。

4.4-7節は、3章1節aの「わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」および、2章17-18節の一連の「わたしは喜びます」に通じる。

”主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。”(フィリピ 4:4、新共同訳)

 根本的には、パウロが経験している投獄を「福音の前身に役立った」(1:12)と捉える逆説である。

 パウロはⅡコリント6章で「悲しんでいるようで、常に喜び」(6:10)と言っている。「ようでいて」との訳は不鮮明。ここは、肯定的な事態と否定的な事態とが同時に、つまり逆説的に同一の事態としてある、という意味である。

「悲しんでいるもので、しかし常に喜んでいるものであり」(青野太潮、岩波訳)

 もっと文学的な表現をすれば「悲しんでいることも本当だ、だが喜んでいることも本当だ」と言える。

「主にあって」というのは、喜びと悲しみの双方が同時に、二重に本当であること。だから「常に」が成り立つ。

5.「喜びなさい」に続く「どんなことでも思い煩うのはやめなさい」(4:6)は個々の出来事の局面でこの二重性を現実化する。

”何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、もmとめているものを神に打ち明けなさい。”(フィリピ 4:6、新共同訳)

 という具体的生活の営みをくぐることで力が発揮される。

6.阪神淡路大震災から12年目を迎える。

 あの経験は、常に悲しみ、常に喜ぶ二重性を「神に委ねることで(主にあって)」示された出来事であった。


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