怒涛の中の同志社と教会(1)− ブラジルの旅(◯と△)から4ヶ月、新潟県中越地震から1ヶ月

2004年11月28日 同志社教会・
学校法人 同志社 合同礼拝説教
2005年版『地の基震い動く時』所収

マルコ福音書 10章35節-45節

 今日はこの記念すべき礼拝に、みなさんとご一緒にマルコ福音書の一節をお読みいたしました。マルコ福音書が大いなる「問題提起」の書物であるということは、今日の聖書学ではほぼ定説になっております。
 それはどんな問題提起なのでしょうか。誤解を恐れず大胆に分かりやすく言ってしまいますと「人は△(三角)が象徴するような生き方から◯(丸)が象徴するような生き方に価値観を変えなさい、それがイエスが生きられ、示された福音だ」ということです。


△が象徴する生き方とは

 △が象徴する生き方とは、どんな生き方でしょうか。△はピラミッド型です。底辺は広いけれど、だんだん上に昇り詰めると頂点は一つという生き方です。上昇志向型、出世型の生き方です。上に行くほど狭まり、多くの者がその下積みになるという構造を持った生き方です。
 今日の聖書の箇所をもう一度ご覧ください。42節です。


 イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」


 「あなたがたも知っているように」、当時の人が、巨大なローマ帝国の権力の支配にどれほど苦しんでいたか「知っている」、身に染みている、ということです。
 いつの時代にも△の底辺は喘いでいます。私たちが少し想像力を働かせるならば、時代を超えて、現代も巨大な権力を振るっている支配者の、その△の構造の底辺で喘いでいる、私たちの身近な「隣人」のことを思うことができるでしょう。しかし、想像力の欠如のために、本当には私たちは分かっていないのかもしれません。もちろん私たちは、それを示す言葉のいくつかは知っています。社会的弱者、路上生活者、失業者、外国人労働者、在日外国人、難民、犯罪被害者、被抑圧者、などなど。

 私は三年ほど前、地震の街神戸から鎌倉に故あって移り住んでいます。「いいところですねぇ」と皆さんがおっしゃってくださいます。本当にいいところです。でも、この街にも路上生活者がいると聞き、またその訪問と支援をしているグループがあると知って、その訪問に参加させてもらいました。七里ガ浜の海辺の堤防沿いにブルーシートの小屋掛けをしている人がいるということで訪ねました。夏の暑い日でした。声をかけても誰も出てきません。覗いてみました。横たわっていたその人は既に亡くなっていました。いや、既に腐乱していました。餓死の状態だったと後で聞きました。目の前の浜辺にはたくさんのサーフィンの若者がいました。道路を隔てれば住宅地です。ついこの間は江ノ島の地下道にいた人だということもわかりました。グループの人はその夜お線香をあげに警察署に行きました。
 本当にショックでした。私たちの街はこのような底辺と共にあるのだ、これがもう少し◯が象徴する生き方の濃い社会や街であれば、一人の命を抱え込んでいけたかもしれない、との思いがそれ以来、心に澱んでいます。


◯が象徴する生き方とは

 ◯に象徴される生き方とは、どんな生き方でしょうか。助け合って生きる生き方、広げると輪がだんだん大きくなる生き方です。
 かつて沖縄で、米軍の嘉手納基地を、平和を願う人々が手を繋ぎ、人間の鎖を作って取り囲んだことがありました。基地は軍事力、すなわち力で支配することの象徴です。巨大な△の生き方の現れです。それを◯が囲むということは、大きな希望でした。
 今日の聖書テキストでは、こう述べられています。43節の後半から44節です。


 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、全ての人の僕になりなさい。


「僕」という言葉は「ドゥーロス、奴隷」という言葉です。社会的関係を含めた意味合いを持った言葉です。主観的な謙遜という意味ではありません。「仕える」という言葉も、奉仕をする、給仕をする、社会的意味合いを含んでいます。私たちはこの言葉で多くの人をイメージすることができます。皆さんはそのイメージをたくさんお持ちだろうと存じます。私など貧しい想像力しか持ち合わせていないので名前がそんなにたくさん上がるわけではありません。インドのマザーテレサ、ネパールの岩村昇さん、ペシャワール会の中村哲さん、沖縄の阿波根昌鴻さん、同志社で言えば、住谷馨名誉教授が挙げているように、山室軍平、留岡幸助、山本宣治(『同志社百年の歩み』昭和51)。ホットなところでは、釜ヶ崎の金井愛明さん、止揚学園の福井達雨さんなどを思い起こします。

 △と◯とは軋みあっています。日本の近代はどうであったでしょうか。日本の近代を象徴する言葉に「富国強兵、和魂洋才」という言葉があります。「富国」、まず国が富む、民衆の生活は二の次になる。「強兵」、軍事力で世界に地位を占める。「和魂」、日本古来の精神構造は天皇を敬うこと、明治憲法ではっきりそれが前面に出されました。「洋才」、技術は先進西欧文明に学ぶけれど、技術や科学が「思想」を持っては困るということです。技術は「和魂」に従属するのです。高木仁三郎さんのような自然観や人権感覚から技術を考える科学者は国の方針に従わないことがあるから困るということです。
 戦後、太平洋戦争敗北という民衆の大変な犠牲の上で形を成した「戦争放棄」の憲法も、それを◯の方向で充実する力と、△の方向で改悪安定させる力との熾烈な闘いが、この50年続けられてきましたが、現在怒涛のように△へと傾斜しています。

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