怒涛の中の同志社と教会(2)− ブラジルの旅(◯と△)から4ヶ月、新潟県中越地震から1ヶ月

怒涛の中の同志社と教会(2)ブラジルの旅から4ヶ月後:◯と△

2004年11月28日 同志社教会・
学校法人 同志社 合同礼拝説教
2005年版『地の基震い動く時』所収

前半を読む

マルコ福音書 10章35節-45節

 さて、新島襄の生き方が、△から◯への価値観の転換であり、その実現の道程での闘いであったことは、改めて申し上げるまでもございません。そのあたりを描写した一文がございます。

 「新島は、幕末の情勢下に明治新政府を準備した井上馨や伊藤博文とほぼおなじ思想を持つ人であった。その志は、日本が、欧米におしつぶされないような『一個の強国』になることにあった。このような井上・伊藤的な思想から、航海の途中で、新島は、はなれてゆくことになる。考える場所によって、考え方の性格が変わる。陸の思想と海の思想とは、しぜんにちがってくるものだ。海の上にいて、海から陸を見ること一年のあいだに、新島にとって、陸地の一部分である一つの藩の風習が、遠いささやかなものに感じられてきた。海の思想は、青一色をながめて暮らしているために、また天を見てくらしているために、陸の思想よりも、はるかに普遍的である。こうした毎日の考えのつみかさねの上に、聖書の言葉が急に新しい意味をもって彼の心の中に生きてきた。」(鶴見俊輔「新島襄ー大洋上の思索ー」『同志社の思想家たち』同志社大学生協出版部 1965年)。

 鶴見俊輔氏の文章です。湯浅治郎、柏木義円、安部磯雄、山田均等が新島の遺志を継いだことは、皆様方の方が詳しくご存知です。これらの人は、近代日本が△の頂点に向かって進むことに批判を加え、自ら辛苦して、◯の方向に使命を成し遂げた人々であります。

ブラジル 2004 夏 アルト・ダ・ホンダーテ・メソジスト教会

内に向けたマルコの批判

 さて、冒頭で、マルコ福音書は「問題提起」の書だと申しました。それは誰に対する問題提起だったのでしょうか。ふつう問題提起は、自分の外の世界に対してなされるものです。外が堅く厳しければ、それだけ問題提起も鋭くシャープになされます。しかしマルコの特質は、問題提起を内側に行ったところにあります。
 今日のテキストの小見出しには「ヤコブとヨハネの願い」と記されています。ヤコブとヨハネとは誰でしょうか。マルコ福音書の初めのほうに、このヤコブとヨハネがイエスに従って弟子になった、という物語があります。1章20節「この二人も、父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」とあります。イエスの一番弟子ペトロにつぐ重要な弟子です。財産や血縁からさえ自由にされて、発心をし、出家をしてイエスの弟子になったのです。後にヤコブは初代教会の指導者になります。そして、ヘロデ王に殺されて殉教して、と聖書の使徒言行録には記されています。マルコ福音書が書かれた時代には、聖人としてあがめられるべき人物であったはずです。そのヤコブとヨハネが、この世的な栄達を求めたという話が、今日の箇所です。さらにマルコは、一番弟子ペトロについても、イエスの受難の場面でイエスを裏切る物語を記しています。
 つまり、マルコは初代教会の自らの姿の最も弱い部分、恥ずかしい部分を、隠さずに述べて、弟子たちがイエスに無理解であったことを批判的に記録することによって、マルコの教会の現在に問題提起を行っている書物です。
 △の価値観は、教会の外のことではなく、自らの内側のことなのだと言っているのです。私たちがマルコ福音書を読むということは、私たちの自らの教会が、知らない間に△指向をしていることへの鋭い反省なしには読めないのです。同志社について言えば、新島先生を外に向かって礼賛するだけでは、同志社の命は保たれません。最近『基督教世界』誌で、本井康博先生の「21世紀の新島襄」という公演記録を読みました。新島研究は第三世代を迎えて、新島の偶像から実像に迫る歴史検証の時代になった、と記されて言いました。私はマルコ福音書の文学的方法と重ね合わせて、それを読みました。
 新島がどのように△の価値観に抵抗し、またどのようにそれに足をさらわれたのか、がその検証の対象でしょう。それは、同志社が、どのように理想を掲げ、またどのように世俗化しているのか、を検証する物差しを構築することでもあります。
 マルコは、イエスの受難と十字架の死を克明に記します。イエスは命を献げてしまいました。その徹底性が、◯の価値観を支えています。◯の価値観は、抽象的ではなく、イエスに従って身を削ることを伴います。
 自分が苦労していることが、今は一見その意味が分からなくとも、もし◯の価値観につながっていると思うことができれば、私たちはその苦労に耐える力を与えられます。苦労が命になるのです。逆説です。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」。マルコ福音書8章35節はこのような逆説を語っています。

押し寄せる△の価値観

 △の価値観は、怒涛のように、同志社にも、関係の諸教会にも迫っています。それは、同志社や諸教会の外の力であると同時に、内々に迫る力です。しかし、それを上回る◯で包囲する力が「教会」には与えられています。
 私は、今日のテキストの43節を目を凝らして何回か読みました。怒涛のような△の価値観に呑まれそうな弟子たちに、マルコはどう言っているのでしょうか。ここは解釈が二つに分かれています。
 「あなたがたの間では、そうではない」は新共同訳。これと同じなのが「然(さ)れど汝らの中(うち)にては然(しか)らず」という文語訳です。「そうではない」という断定的な「励まし」を読み取る読み方です。あなたがたは△ではなく、◯に属しているのだということです。
 もう一方は、「そうであってはならない」と命令的に読みます。口語訳です。倫理的響きがあります。皆さんは、どう読むでしょうか。なんとなく命令的に読んでしまうのが大方です。原文に忠実に読めば、命令形ではなく、叙述形です。新共同訳がそれを採っています。私もそのように読むほうが良いと思います。
「あなたがたは、そうではないのだ」「あなたがたは△ではない」。英語の聖書に “It’s not going like that with you!”というのがありました。「あなたがたはまだ△になってしまっているわけではない」という意味でしょうか。◯と△の間で、軋んではいるが、◯のほうに重心がかかっているという意味でしょう。慰め深い読みです。
 私たちは、△に全てを絡め取られてはいないのです。今の状況で読み取れば、同志社も教会も、すでに神の贖いとられた群れとして、◯に重心がかかっているのです。教会は、イエスに真剣に従っているかどうか、厳しく自己吟味しなければならない側面と、同時に、それにも関わらず、神に招かれ、召され、イエスに従う者とされているという両面があります。「あなたがたはそうではない」というのは、励まし、赦し、恵みの確かさに気づきなさい、ということです。そこに立ち返って、歩むことが赦されているのです。

 私は最近、佐伯牧師から『アメリカン・ボードの宣教師』という本をいただきました。同志社大学人文科学研究所の研究成果をまとめた大部な本です。皆読んだわけではないのですが、私が24年牧会をしていた、神戸教会のルーツなどが記されていて、興味を促されました。京都に比べると神戸は、キリスト教の価値観が受け入れられるのに政治的、文化的土壌が緩やかであったことが記されています。そして、宣教師たちが日本で、聖書の価値観を伝達するために、またその文化や教育を伝えるために、いかに祈り、心血を注いだかが記されています。アメリカン・ボードを通して示された恵みの確かさが記された本でした。

新潟県中越地震 炊き出し

 また、先週新潟中越の地震被災地を問安してきました。同志社の卒業生の牧師たちが献身的に被災の中から救援に奉仕している様を知り、ここにも新島の子らがいることを実感しました。
 現在私たちは、政治的権力、軍事的支配力、経済的収奪力、思想的統制力が怒涛のように働く、グローバルな△構造の世界に揉まれています。しかし、「然(さ)れど汝らの中(うち)にては然(しか)らず」の言葉が励ましを与えます。それを信じて、イエスに従って参りたいと存じます。

祈ります。

 天地の創り主なる神、今日は、尊敬する佐伯牧師の牧会する同志社教会と、私たちの母校同志社との合同礼拝を、敬愛する兄弟姉妹と共に守らせていただき感謝です。教会も学校も滔々たる世俗の流れにさらされています。それは、巨大な△構造をしています。十字架を負う道は今日険しさを増しています。
 イエスが生きられた福音の価値観を探り、その十字架の御足の跡に続く者とさせてください。そして、助け合って生きる◯の構造の神の国の実現に参加していくことができますように。同志社教会、学校法人同志社の負っている使命は大きく、また重い十字架の道であると信じます。しかし、あなたの大きな御手の恵みの確かさのうちに、どうか一人ひとりを強めて、その持ち場を全うせしめてください。主イエスのみ名によって祈ります。アーメン

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