「岩井要」伊藤義清(1)(2004 引用)

上の写真は、岩井文男ご夫妻(ご両親・左)、岩井要様(長男・右端)、善太様、恵子様(中央)。呉山手教会(1960-65)訪問の時か

『教界人物地図 ー 牧師の子どもたち、アジアとかかわった人々』(伊藤義清著、教友会 2004.4.30 発行)より引用

(サイト記:著者・伊藤義清氏は、健作さんの同志社大学神学部の同級生、寮仲間)

父・文男は新島学園校長

「私の出た新島学園は、敷地の回りに塀のない学校だった。これは同志社の大先輩であり牧師の岩井文男校長の方針によるもので、おかげで生徒はどこからでも自由に学校に出入りすることが出来、授業を抜け出すにはもってこいだった。それでも校長は『教育の現場は外に向かって開かれるべきだ。外から自由に学校を見てもらうことが大切だ』との方針を変えなかった」(『基督教世界』96年6月)。

 これは久が原教会牧師滝口宣(とおる)の一文の書き出しだが、彼は昨夏召された滝口勝の長男。勝が甘楽教会牧師のとき、新島に通うが、岩井文男はこの甘楽教会で1918年、16歳で受洗している。

 宣の弟で『日刊ゲンダイ』大阪編集部の豊も同じく新島の出身で、同級生に阿蘇旅人。旅人は百人町教会牧師阿蘇敏文の長男。文男の長男で、建築家岩井要は百人町の会員とつながる。

 先日、『日刊ゲンダイ』のデスク関口一喜と築地の居酒屋で、滝口豊の話などしているところに、関口の友人でルポライター磯貝陽悟が現れた。

「実は私は甘楽で千葉温先生から洗礼を受け、荒谷恒喜先生とも親しい。新島14期生で、岩井先生は中三のとき就任。母の(早川)すみ一家は、前橋教会の出身です。父は神主の有資格者でしたが、死ぬ二週間前に、滝口勝先生から受洗。そのあとの大門義和、田口重彦先生も存じています」。

 いま彼は池袋西教会のメンバー。

 岩井文男については、新島学園女子短大新島文化研究所編『敬虔なるリベラリスト ー 岩井文男の生涯』(84年 新教出版社)に詳しい。

 当時、研究所主任で同志社大学神学部教授の原誠が「解題」で言う。

「たしかに岩井は名校長であった。しかし、彼の主戦場は農村であり、教会であったといえよう。彼の信仰と思想の底流にはふつふつと燃えるがごときキリストへの正統的な信仰と政治学徒としての養われた自覚的な社会的認識とが共存していた」

1946年、初代の坂祝教会会堂前にて(健作さん13歳、電気のない生活がしばらく続いた)

「我々は岩井の生涯が概ね五つの時期に区分されると考えた。①同志社大学法学部在学中に受けた社会的キリスト教の思想的信仰の影響と、それに身を投じていった京都府下、岐阜県下での農村伝道の時期。②そこから身を引いての神学校での研鑽と、開拓伝道で牧師として生活を送った時代。岩井はこの時、合同した日本基督教団の第三部の主事として「教団合同」を実務的責任を担って体験した。③敗戦後の荒廃の中で、かつて失敗した農村伝道へと再び入って行く坂祝教会時代。④丹波教会という農村での牧会をしつつ、一転して同志社大学教授として、宗教部長、学生部長として、大学の行政組織の中に身を置いた時期。⑤岩井の最後の働き場となった新島学園校長の時代」

 岩井文男は生涯を通して新島襄、柏木義円、海老名弾正、中島重、賀川豊彦らの影響を強く受けた。彼らは皆、イエスの愛と良心に生きた人であり、岩井文男の一生もそれであった。93年8月12日。82歳で岩井は召された。9月24日、新島学園での追悼礼拝で、同級生の西宮教会牧師棟方文雄が説教した。「彼は死んだが信仰によって今もなお語っている」(ヘブル 11:4)と。

岩井文男ご夫妻と溢子さん(健作さんが神戸教会牧師時代に安中を訪れた際)

建築家・岩井要(かなめ) 浅野順一の伝道論に「同感」

 岩井文男は、夫人まき江との間に、要、健作、勇児、善太、百合子、光世、(石井)恵子の五男二女がいたが、百合子、光世は敗戦の前後に早生、坂祝の墓地に眠る。

 まき江は、上州甘楽郡藤木村(現群馬県富岡市)の新藤耕太郎から四代目のキリスト者。四人妹弟の長女だが、栄一ときくえは召天。末弟の二郎は文男の後、新島学園校長をつとめた。87歳になるまき江は今、要・民子夫妻のもとで療養中。民子は、メソジストの牧師で青山学院中等部長のとき召された川尻正修の三女。縁続きの牧師に三谷正之助、青山四郎ら。要夫妻は美竹教会を経て百人町教会に所属。

「老母の介護が重く、礼拝に出られない。同様な家庭が多い。教会(教団)が地域でも連帯して対応してほしい」

 と、ゆかりの中濃教会(旧坂祝)五十周年記念礼拝から帰ったばかりの岩井要が言う。

 要の真建築設計事務所がこの33年間に手がけた建築は300を超すという。これらのうち銀座教会や東京YMCAの諸設備など、教会堂をおもに30が『天と地をつなぐ空間 ー 教会堂』(日本キリスト教団出版局)としてまとめられた(95年11月)。この写真を撮り続けた写真家佐藤雄一は先日召された。要は、あとがきで「最初の素晴らしいものとの出会い」は、牧師の父が岐阜の農村の開拓運動で苦闘していた時に、生涯唯一建てようとした会堂建築であった。それは資金の行き詰まりで上棟までこぎ着けたものの、しばらく骨組みのまま放置されたという。

「朝も夕もそのままの姿は、私の脳裏に強烈に焼きつけられた」と。

坂祝教会 2代目 資金難で暫く骨組みのまま放置されていた。

 結局、わら屋根の農家で「灯火ランプで勉強した」要は、岐阜一中から松本高校へ進む。

「演劇部に入ってS・ワイルダーの『わが町』(森本薫訳)や木下順二の『山脈』の主役をやりましたよ。先輩には辻邦生(作家)が、後輩に熊井啓(映画監督)がいた。関屋光彦教授やアウグスチヌス研究の中澤宣夫氏にも出会った」。

 東大建築学科に進み、東大YMCAの寮で木下順二や山本安英と「ぶどうの会」の稽古場にも出会う。

要の東大時代の同級生二人、藤村洋(中央)、小林正樹(前右)、寮も教会(美竹教会)も一緒。写真後方左上は健作さん。前方左は小林祐子様。

 要は1954年の卒業後、郵政省の建築部技官になるが、6年後に独立。真建築設計事務所を設立。「真」という名称は「恩師」浅野順一の旧約エレミヤ書の「真実」からとった。

「浅野先生は日本の伝道は、一人ずつを強靭にしていく以外にないと言われる。同感です」(『月刊キリスト』68年4月)。

「昨年事務所を縮小して、ぼく一人になりました」。京王線笹塚駅前のビルの小部屋に移った。教会の写真の大きなパネルにまじって裸婦のデザイン。

「いま念願の絵をまた始めたんです」「ロゴス的なものと、パトス的なもの、というか、ヘブルとギリシアのはざまでの揺れはまだ続いているな」。

 要・民子は真実・道香の二女だが、道香は先年召された。若くして世を去った娘、そして病んだ母をいたわりつつ、しかし要はさらなる飛躍を夢見る。現在、赤岩栄ゆかりの代々木上原教会を設計中。いま要の思いは、42年前独立の際、浅野順一がおくった色紙の

「あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、よい道がどれかを尋ねてその道を歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ」(エレミヤ書 6:16)

 そのままであろう。

弟・岩井健作 観念性を打ち砕いた「大震災」

 岩井要との話で「健ちゃん」の名が何度も出た。弟の神戸教会牧師岩井健作のこと。彼は今、日本基督教団阪神淡路大震災救援活動センター運営委員会で奮闘中である。

「新聞の死亡者名簿で6歳以下の子の名前を拾ってみた。5480人の死者のうち、147人だ。この子らにまつわる無念と自責の家族の物語は想像を絶する。私はこの不条理の死を思うと、イエスが『神の国はこのような者たちのものである』(マルコ 10:14)という時、単に子どもの存在が示す永遠性という、これまでの理解の観念性を打ち砕かれた。不条理の死(イエスの十字架の死を示唆しつつ)の悲しみなしでは、神の国の永遠性が語られてはならないことを知らされた。『地震』を未曾有の人災にまでした『大人の価値観』(戦後民主主義の空洞化、政治、行政の腐敗、人間不在の経済主義等々)を鋭く問う、死の彼方の子どもの存在が示す価値観が被災地の黎明を告げている」(『被災地の一隅から』「福音と世界」96年11月号 岩井健作)

後半に続きます