2004.2.22、川和教会礼拝説教要旨
フィリピの信徒への手紙 4:2-7
1、フィリピの教会はマケドニアでのパウロの伝道中、短期間の伝道にも関わらず婦人たちを中心に入信者を得て教会の基礎が成立した。二人の婦人の名前がここに挙げられ「主において同じ思いを抱きなさい」とあるのは、深い意味で愛に基づく教会の共同性の成熟さがまだまだ不十分であったのであろう。形成途上の教会への避けられない勧告である。
この初代の教会が女性を中心に誕生したことに注目したい。新しい生き方・考え方が芽生えていく社会的変化と女性の主導性を想像するとそこには実に豊かなものを感じる(現在の平和・反戦運動への希望もそこにある)。教会もその制度化が進むと男性中心になった経緯を新約聖書は如実に示している。
2、3節の「協力者」は「くびきを共にするもの」という意味。どんな運動でも、働きでも、人と人とが一緒にやっていこうとすると、「確執・亀裂」は避けられない。渦中にあって、最終的には「神のみがその労苦をご存じだ」という思いを抱くことがある。またそれがイエスの十字架の死に示された(2:8)「くびき」に繋がることを悟ることがある。
だが、くびきを負うと、不思議に、閉塞からの自由を与えられる。「この二人の婦人を支えてあげてください」。支えられる立場であったり、支える立場であったり、そんな実感を持ちながら、教会は育っていく。また教会を苗床とした、この世の人間関係は成熟していく。
3、2-3節、4-7節、は必ずしも一貫してないが、3章1節の「わたしの兄弟たち、主において喜びなさい、同じことをもう一度書きますが」に繋がっている。さらに、この句は2章17-18節の一連の「わたしは喜びます」に通じている。「常に喜びなさい」は、根本的には、パウロが経験している様々な出来事、それは「わたしの身に起こったこと」すなわち投獄のことも含めて、「福音の前進に役立った」(1:12)ことの「喜び」を意味している。パウロには殉教も射程にあったと思われる。
4、5節「主はすぐ近くにおられます」。主の支配はすでに始まっているとの意味。「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)。
5、「喜びなさい」は、6節の「どんなことでも思い煩うのはやめなさい」という個々の出来事の局面の戦で現実化する。それは「祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」という具体的生活の営みをくぐって力が発揮される。そんな証しをわたしはたくさん聞いてきた(Nさんのことなど)。皆様にもきっと暖めている証しがあるに違いない。