イエスの十字架を囲む人々

イエスの十字架を囲む人々

マルコ福音書 15:33-47
本当に、この人は神の子だった」(39節)

 教会のシンボルは十字架だと皆思っています。では十字架とは何でしょうか。このことを考えるには、まず聖書のイエスの十字架の死のことをよく知ることが大事です。それは新約聖書の福音書に記されています。ここでは福音書でも一番初期のマルコ福音書がどのように綴っているかを手掛かりにしましょう。

 マルコの14章−16章がイエスの受難物語です。でも、これは、史実を記したものではありません。福音書記者が伝承を用いて、自分の信仰に従って「イエスとは誰か」をまとめたものです。
 日本の福音書研究の第一人者大貫隆氏(東京大学教授)はマルコ福音書の中心思想をこの15章の39節に見ています。

 そこには、イエスの十字架による死刑に立ちあったロ−マの軍隊の百人隊長の「本当に、この人は神の子だった」という言葉が記されています。百人隊長というのは、軍隊では小隊長というか、実力のある指揮官です。百卒長が「神の民」ユダヤ人ではないこと、軍人であることが注目されます。

 ユダヤ人たちが待望していたメシア(救い主)すなわち「神の子」がイエスだというなら辻褄が合います。しかし、彼はローマ人です。また、軍隊というのは、国家とか皇帝に忠誠を尽くすことがなければ戦えません。百人隊長はその組織の一員です。その組織人が、全く地位、民族を破って、一人の人間としてあの「神の子」告白を魂の底から語るのです。

 ここにイエスの十字架の出来事の鮮烈さがあります。福音書記者の強調がそこにあります。さらに、マルコは38節で「神殿の幕が裂けた」という話を載せています。エルサレム神殿の内部には、神の臨在を示す至聖所がありました。そこには内と外とを区別する幕があったのです。それが「引き裂かれた」ということは、神と人を隔てる幕がなくなったこと、神殿祭儀の終焉、ユダヤ教的理解の神との関係の持ち方の終わりを意味する神学的理解です。

 さらにマルコは女性の弟子に言及します。40〜41節。マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメが名前とともに登場します。マルコは、ペトロを始めとする男性弟子を中心として福音書の記述を進めて来ました。女性の名前がここで現れるのは唐突です。そこには、今まで隠れていた女性を登場させ男性弟子のイエスへのあの悲劇的裏切りに代わる新しい活動者としての弟子像を示す意図が窺われます。「遠くの方から見ている女たち」(40節) は、その時の政治的実情から近づけない状況を暗示しています。しかし、彼女たちの、離れがたい心の痛み、悲嘆、関心、心遣い、興味、待機、などを象徴している言葉です。41節には、「彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった」とあります。三人の名前の背後に大勢の女性たちが想像されます。

 42節以下の記事にでてくるアリマタヤのヨセフはイエスの弟子たちの周辺のそのまた周辺の人物です。マルコの記述に従えば、身分の高い議員だとのことです。マタイ福音書は金持ちだといっています。生前のイエスの宣教の場面には現れていません。しかし、イエスのことを心ひそかに想っていたのです。彼はイエスの遺体を自分の所有の墓に埋葬することを通して自分の信仰の告白を現しました。47節を見ると、二人の女性は埋葬を「見つめていた」とありますから、ヨセフに声をかけるような知り合いでもなく、また身分の違いもあったのでしょう。彼女たちは、イエスの最期の目撃証人です。イエスの十字架を囲む人々の内には、お互いに知り合いでない人がいるということも私たちには新しい目を開かせます。

 イエスの十字架の出来事の受容は、生前のイエスの言葉と振る舞い、すなわちこの世の世俗の価値観をくつがえすイエスの逆説的存在の受容を促しています。イエスは生前身近な弟子たちに「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8:34) と呼び掛けました。この呼び掛けは、現代の私たちをも射程に抱え込んでいます。「自分の十字架を背負う」。私たちは個人的な人生においても、社会的な諸課題でも、さらにグローバルな視点でも、背負わなければならない山ほどの「十字架」を身にまとっています。負いきれないという思いはあります。しかし、イエスの足跡をたどる時、引き寄せられる力を感じないでしょうか。十字架はそのです。