マタイ 19-20章を読む(宮崎 No.4)

二日目 2002.11.4(健作さん69歳)

日本基督教団 九州教区 宮崎地区信徒大会 講演

1−1、聖書学における福音書文学の特質。教義的まとめではない。伝記文学。

1−2、マルコ及び「Q(Quelle資料)」を資料とする二資料説。

2−1、マタイの特徴。伝統(ユダヤ教)的なものの継承と変革(教会形成)。

3−1、「捨てる」ということ。所有からの自由。
  6:19-21, 10:9, 13:22, 16:22, 19:16(「金持ちの青年」)。

3−2、「金持ちが神の国に入ることの難しさ」。弟子達の驚き。

3−3、「人間にできることではないが、神は何でもできる」

4−1、27節。ペテロの自負。「何もかも捨ててきた」。

4−2、平行記事。マルコ10:17-31,(ルカ18:18-30)の提示する問題。
  イエスに対する「弟子たちの無理解」をマタイも継承。

4−3、マタイの教会なりに「先なるもの」といわれる教会ボスがいたに違いない。ボス退治に苦労する「マタイ」の教会指導者。

4−3、自負の力によって立つ。自己完結的な信仰理解から自由でないペトロに象徴される教会人。先のものが持つ成り行きとしての権力構造。

4−4、「捨てることの逆説性。命の関係性」(芥川龍之介『杜子春』) 
「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(19:30)強調点。

5−1、なぜ、マタイにのみ、逆説の強調点があるのか。20:1-16(「ぶどう園の労働者のたとえ)の重さ。

5−2、マタイは20章27節で、「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために」と述べ、「後と先」の逆説を裏付ける。

5−3、「ぶどう園の労働者」の物語は、ショットロフというドイツの新約聖書学者によれば、最も古い伝承をになったのは、イエスとともにいた最底辺の(貧しい日雇)だったであろうと言っている。この譬えから「神の慈しみの優位性」ということだけを学ぶとしたら、もう一方の日雇い労働者のこれを語り伝えてきた心の躍動が落ちしまう。これを語り継いだ人たちは、これを語ることによって、社会的差別、貧しさからの開放を味わった。
 宗教的領域の真理(神の前の平等性、あるいは、神の恩寵・恵の絶対性、例ロマ3:24「ただイエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵により無償で義とされる」)の説明だけではないところに、歴史の中の譬えの重要さがある。

5−4、資本を持つ大土地所有者と労働者というこの世の現状を写しながら、なお労働の協力、生産の共労などの暗示がある。権力関係だけでは動かない。後のもので支えられる社会のつながり。

5−5、「後にいる者が先になり」の19:30とは異なる順序に注意。

6、今の現実の中で何を想像して読むかが大事。

(サイト記)マタイ 19-20章の見出しリスト(新共同訳)
 離縁について教える、子供を祝福する、金持ちの青年、「ぶどう園の労働者」の譬、イエス三度死と復活を予告する、ヤコブとヨハネの母の願い、二人の盲人を治す

(宮崎教会 No.1 礼拝説教「子どもの未来に祈りを」初日)

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