聖書と教会 − 今、どう読むか(宮崎 No.3)

二日目 2002.11.4(健作さん69歳)

日本基督教団 九州教区 宮崎地区信徒大会 講演

1、私の教会生活と聖書
1−1、幼い時、日曜学校などで聞いた聖書物語は意外と心に残っています。岩村清四郎牧師の「ヨセフ物語」は鮮明です。(幼稚園・保育所での聖書のお話、それとお母さんの絵本の読み聞かせなどは大事です。)

1−2、自覚的に聖書を読み始めたのは受洗(1946年、岐阜県・坂祝教会、現中濃教会)後、中学生時代、教会の仲間と。開拓農村教会の中学生はもう日曜学校「教師」。「聖書読破会」を作り、通読でどこまで読んだか切磋琢磨したものです。極めて敬虔な読み方でした。後々『日々の聖句』『日毎の糧』のように、信仰の敬虔を日々養うための工夫された手引きも知りました。

1−3、高校生になって聖書の読み方は、教理的問い(例えば聖霊とは何か等)を学ぶため、友達と『信仰問答』を中心にして聖書を読みました。教義には聖書的基礎付けがあります。この時代、聖書が「輝いて」見えるような気がしました。聖書の重要箇所は教会の教義の大きな文脈につながり、聖書を読むとは教会が培ってきた信仰の継承であることを知りました。聖書を読むとは、「聖典」としての聖書を読む事なのだと知りました。

1−4、生活経験の中での聖書
 しかし、この頃、家の農耕の生活を手伝って、薩摩芋や麦を作ったり、山羊や蜂を飼う仕事など、そして晩秋、もう冠雪した御岳山が夕日に輝くのを遥かに望みながらふっくらとした麦の種蒔きを手伝う等、自然の中での生活をしたことが、知らない間に、聖書の物語や詩や譬え話などと、後から考えると聖書の理解と相関関係の経験になっていたことを知りました。聖書の共時的理解(通時的に対して)の素地はそこにありました。マルコ4章の「種蒔きの譬え」だとか、マタイ20章の「ぶどう園の労働者の譬え」などの解釈に、青年時代の生活経験は決定的な影響を与えました。

1−5、神学校は同志社だったので、「教義学」(組織神学と表現されました)が中心ではなく「歴史神学」に重点のある学風でした。専攻の「聖書神学」も19世紀以後の歴史批判的研究が前面に出ていました。講義は、旧約はモーセ五書の資料分析、新約は様式史や編集史など聖書学が中心で、今までの聖書の読み方との相即に苦慮しました。

1−6、バルトに目を開かれる
 当時キリスト教会の大きな流れは、カール・バルトの神学的聖書解釈が主流でした。聖書は神が人となりたもうたイエス・キリストを証しするという一点に絞って読まれるべき事を説いたキリスト論的集中の論理は魅力でした。

1−7、社会的キリスト教への関心
 戦後農村社会の矛盾を体験した私は社会的関心からの聖書への接近も押さえがたいものでした。同志社に流れていた、社会的キリスト教の伝統へも興味を持ちました。いろいろな聖書への関わり方が内面で群雄割拠というか雑然としていたのが、青年期後期の私の現状でした。

1−8、そんな時出会ったのがドイツの新約学者ブルトマンでした。彼は新約聖書の実存論的解釈を提唱していました。当時日本の教会では、新約聖書の非神話化論として紹介されています。ブルトマンは、歴史を史実(ヒストリー)として捉えるだけではなく、出会いの出来事・邂逅史(ゲシヒテ)として理解しました聖書を読むという事は、その事自身が出会いを経験するという事なのだ、という意味です

 邂逅するということは極めて新鮮な響きを持っていました。現代史の諸課題を生きることを抜きにして「聖書」が語りかける真理と出会うことはない、という関係的(実存的)「啓示」理解に一つの納得を得ました。今まである種の魅力を感じていた「啓示」の「客観性」を強調する、教義主義、「啓示神学」を自分の内側で相対化することが出来ました。それに加えて、客観化された「信条(文)」「信仰告白(文)」「神学」を歴史(ヒストリー)の文脈に戻して、その歴史における邂逅(神との出会い)とは何であったのかを問題にする仕方で考えることができるようになりました。

「信じる」ということが、ある観念の中に入り込む事ではない事が分かってきました。ともすると宗教者の陥りやすい観念性からの解放を意識するようになりました。このことは今までの敬虔的・教義的聖書の読み方を否定するものではありませんでした。もしそうであれば「教会」をやめていたと思います。むしろ今までの読み方を相対化することが出来たと言えます。なぜか、それは自分が今まで育った現実の各個教会を邂逅史的に捉えるからです。聖書の研究というものは、その意味で教会という場を離れて自己完結性を持たないというのが、私の思いです。

2、教会生活と信仰生活における聖書
 教会生活とは何でしょうか。礼拝や諸集会に参加し、当番や役割をにない、他の教会員との交わりを持ち、月決めの献金や財政への責任を果たし、様々な関わりを持って行くことを持続的にするが教会生活の内容です。ここでは「生活」が他の人と一緒に営まれることに重点があります。しかし他方、信仰生活という言い方をします。信仰生活は個人的な側面からの信仰の持続の生活で、つながりや共同などの全体の面を射程にいれた、言い方ではありません。牧師に躓いて教会生活をしなくなった人も信仰生活をしている人はあります。教会役員になった人が、信仰生活から教会生活に一歩踏み込んだという表現をしましたが、事柄を突いています。

3、個人の内面性と聖書
 信仰生活とまでは程遠いものの、なお止み難く聖書が人生の関心であるような場合があります。特に近代日本の文学を形づくって来た文学者たちは、教会から離れ、信仰に反逆しながら、なお聖書を作品の射程においている場合が多いのです。夏目漱石、芥川竜之介、太宰治、島崎藤村など(参照、『キリスト教文学を学ぶ人のために』安森敏隆他2002 世界思想社)。そうして日本では聖書はこのような関心で実際に読まれているのです。教会は聖書を「聖典」として読む事を前提にしますが、ここからも「教会の共同性」とは何かの問いを常に受けています。

4−1、聖書学とは何か
 聖書学は聖書を歴史の文書として対象化して、理解するための方法でありますから、聖書の信仰告白的(聖典的)理解を前提にする訳ではありません。聖書学はそれ自体が独立した研究方法であり学問です。「教会」に隷属しません。ある牧師が、自分の牧会する教会で、聖書学をあなたが学ぶのはよい、しかし、教会の戸口をくぐる時は、それを後ろに置いて、戸口の中に持ち込まないで欲しい、と言ったといいますが、ある意味ではその通りであります。

4−2、聖書学を用いながら教会で聖書を読む事の意味
 歴史的信仰告白(文)は、聖書を信仰の内容として把握しますが、それと相対する主体の問題をぬきにして(聖書学のように)聖書そのものを対象化することをしません。例えば、日本基督教団信仰告白は聖書について「神につき、救いにつきて、全き知識を我らにあたうる神の言葉にして、信仰と生活の誤りなき規範なり」と告白します。これを、逐語霊感説のように、一字一句を「規範」とすると、実際の社会生活や教会生活は成り立ちません。相当に解釈の幅を許容しないと、現実の教会の「規範」となりません。もし「規範」を厳しくすれば、それは自己完結的論理となり、外からみれば、ある種の観念形態を持った閉鎖集団を形作ります。「宗教」には極端にはそのようなうさん臭さがあります。

4−3、聖書の解釈の幅を方向づけるものは、後の時代の教会が生み出したある一定の信仰告白原理ではなくて、聖書そのものが内に宿している歴史的成立経過(例えばマルコ福音書を生み出した教会[著者]が、マルコ福音書本文そのものとはどういう関係にあったかをよく知ること)に学ぶ事です。そこでは聖書学の助けを必要とします。聖書はその各文書の成立をはじめとして、聖典として成立するに至るまで、それを生み出した長い間の、様々の歴史的教会との関係があります。

5−1、教会の閉鎖性を超えることと聖書学を視野に入れた聖書の読み方
 教会生活は悩みの連帯(神の福音がそのような性格を持つ)にありますが、ともするとその交わりが閉鎖性をもたらします。それは聖書の「告白的文言」が共通の符号になってしまって、神の言葉と言いながら、その外の歴史の闇と切れるからです。しかし、「福音」は本来、閉ざされたものではありません。それは大きな悩みの歴史の文脈へと悩み多きものを開いているものです。聖書を歴史学や文献学の扱いにゆだねて歴史文書としての文脈に一度戻してみることはその開かれた交わりを生み出す作業の過程です。だから、教会生活で聖書学と出合うことは、教会という交わりを、開かれたものへと進める役目をになっています。

5−2、聖書学の知見は、敬虔的、教義的聖書の理解を相対化すると同時に、そのような聖書理解に立つ共同性をも相対化します。それをいわゆる「告白共同体」の解体と見るのか、「歴史に開かれた共同性」の構築と見るのか、私は後者に可能性を見ます。聖書を歴史的文脈に置き、私たちが今の歴史の重荷を負って生きる中で、「神の言葉」を聞く事を求めていきたい。

6、実例の一つとしてマタイ福音書19:23-20:16を学びたい。

(宮崎教会No.4 地区信徒大会 講演後半「マタイ 19-20章を読む」)

(宮崎教会No.2 礼拝後懇談「阪神大地震と教会」初日 2002.11.3)

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