書評『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』

ジェフリー・サイカー編、森本あんり監訳 2002年発行 日本キリスト教団出版局
“Homosexuality in the Church: Both Sides of the Debate”  1994 Jeffrey S. Siker

書評『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』

「福音と世界」2002年7月号所収 新教出版社

「ホモセクシュアルなビへイビアをもっておられる方が教師検定試験を受けると聞き及んでいる」が「簡単に承認しないでいただきたい」との発言が、私の属するキリスト教団の意志決定機関で委員の一人から出された時、私はそこに居合わせていた。「差別発言だ」との声が飛び交った。しかし、ことの重大性をあまり認識していなかったというのが、あの時を振り返っての私の正直な感慨である。 あれ以来、親しい知人の同性愛の「カミング・アウト」を受け止め、断片的ではあるが学びにも加わってきた。

 しかし、この書物が提供しようとしていることはそれにもまして事柄へ関わるようにとの促しであり、問題の当事者に引き入れられることであるとの読後感が強い。本書を読了して、アメリカでの、教会はもとより政府・学校・軍隊そして社会全体で、ここ20年来いかに激しく議論され続けてきた問題であるかということを改めて認識した。私たち日本の教会人にとっては、アメリカ教会の生々しい実情や、多面的な信仰理解や、教会の意思決定などの組織運営のひだ、教会の苦痛の一断面を知らされる。けれどもそれ以上に本書は、同性愛の課題をどう建設的に進展させるかとの、編者ジェフリー・S・サイカー(Jeffrey Siker 1955-)の熱心と誠意が読者を惹きつける。

 彼は、米国合同長老派教会正教師であり、ロヨラ・メリマウント大学の新約聖書学の教授である。1989年の教師養成委員会では、ゲイ・レズビアン候補者の按手礼に棄権票を投じていたが、翌年には賛成票を投じている(委員会の議決は否決だったが)。その一年の研究はきっと凄まじいものであったに違いない。資料収集、祈り、黙想、そして両方の立場の人々との議論。彼は、一年の間に考えを変えるに至った。その理由は、この書物の第六部「決断の行方」に収録されている第13章「同性愛キリスト者・聖書 ・異邦人の受容 - 悔い改めた異性愛者の告白」という論文になって収められている。しかし、これはこの書物の到達点などではない。この間題についての新たな討論への旅路のために、自分の表明を行っているにすぎない。そしてそれは熾烈な論議を呼び起こすであろうと思われる(読者の私にとっては、実りある表明であった)。

 さて、本書の構成は、監訳者森本氏が「あとがき」で述べているように、「同性愛という論題を『双方の立場』から論じ合った書物である」。「聖書・伝統・科学・ 経験という四つの分野において、立場の異なる人々がそれぞれ一対の議論をかわしている」。ここで本書が意図しているのは、「建設的議論に参加」するための資料を提供することである。そして、編者が述べるように、主な読者は主流派の教会に属するキリスト者、それも大多数が異性愛者で、教会にゲイやレズビアンの信者が存在しているという事実をどう捉えたらよいかを話し合う意欲のある人達であり、彼らへの貢献が目指されている。

 本書を手にする人が、「天地創造の初めから、神は人を男と女とお造りなにった」(マルコ 10:6)という聖書の言葉を時空を超えた規範倫理として、ほとんど無自覚なままに頭と体にたたき込んで来ている人であるならば、まず自分が「多数派の異性愛者」であることを自覚させられるであろう。今までの自己を「異性愛者」として相対化する勇気が必要である。「偏見や先入観を捨てて、耳を傾けて学んで戴きたい」とは編者の言葉である。それは「同性愛者の性表現についての規範を承認すること」を含んでいる。それはどのような「規範」なのか。 少なくとも聖書のテキストがそのまま(聖書を歴史の文脈に戻して解釈するという作業なしに)規範とならないことは受容しなければならない。主流派の論理では、「同性愛指向」は受容できても「同性愛行為」は「罪」とするが、本書でも、その論理が一方の立場として詳細な論陣をもって主張されている。

 第一部はまず「聖書の解釈から」。ヘイズの「体の贖われること」とファーニシュの「文脈を読む」は真っ向からぶつかる。創世記(1-2章、19章1-2節)、士師記(19章)、 エゼキエル(16章46-56節)、レビ記(18章22節、20章13節)、ローマ(1章26-27節)、コリントⅠ(6章9節)、テモテⅠ(1章10節)などが論じられる。

 11人の第一線の論者(ほとんど同性愛者ではない人)が、5項目の分野で賛否双方の立場から論を進める。本書は教会や学校で実際に使われることを意図しているので、各論文の終わりに「討論の課題」が5項目付けられている。この項目を用いて、読者側での討論をすることは有益であろう。例えば、ヘイズとファーニシュのローマ1章へのアプローチの説得力と問題点をあなたはどう理解するか、などである。

 第二部は「伝統は何を語るか」。カトリックの教皇庁教理省の 「司牧的配慮への書簡」(1986年)は、 他山の石として知っておく必要があるだろう。自ら同性愛者であり『教会と同性愛者』(1976) の著者でもあるマックニール(John James McNeill 1925-2015)の「教会に成長を促す挑戦」は、 同性愛者の存在を「愛と霊の現臨」として語っている。

 第三部は「道徳理論の展望」。第四部は「科学的知見の語り得ること」。第五部は「経験を省みる」。ここだけは9章-11章と三つの論文がある。「エゴ・ディストニック(自我非親和性の)の同性愛者」、「異性愛中心主義の克服」、「米国教会のゲイとレズビアンの運動」などは、実践的に学ぶべきテーマ。

 第六部を構成する二つの論文の一つは「性・哲学・政治 - 同性愛者の按手をめぐる議論の内容と方法」と題するジャック・ロジャース(1934-2016)の論文。彼は、同じく長老派教会正教師、サンフランシスコ神学校教授。この間題がいかに深刻に主流派教会の本質を問うているかを明らかにし、分裂の危機さえ招いている現状をどう打開していくかが模索されている。「教会の一致」を揺るがす問題の中で、「個人と共同体」「経験と聖書」「例外と規範」「道徳的勇気と制度的安定」といった緊張をどのように乗り越えていくか、集団(ポリス)の技術としての政治的な歩み寄りの時が求められる、とまで述べている。

 問題はどの辺りにあるのか。「主流派である異性愛キリスト者のほとんどは、ゲイ・レズビアンのキリスト者を人格として受け入れている。彼が受け入れることができないのは、同性愛が神の良き賜物だという主張である。さらに困難なのは、男女一対の結婚やその延長である家族生活について語る聖書の言葉がもはや親範にならない、と暗示されていることである」(p.226)。ロジャースは「性」についてこう述べている。「ここ数十年の間に、性の問題はすべての個人的・社会的問題を凌駕するもっとも困難で意見の割れる問題となった。私たちはなぜ性について語ることを止められないのであろうか。識者によれば、性は今日、中世において『魂』という言葉が果たしていたのと同じ役割をもっている。それは、私たちが人として何者であるかを定義するために用いられるのである」(p.250)。本書の表題「キリスト教は同性愛を受け入れられるか」は、この視点から見れば「キリスト教」信仰の本質をも問うている。

 今私は、本書を「有事立法」反対の運動の中で読んでいる。「備え」と称して、本来「敵」でないものに先制攻撃を仕掛ける口実をつくる危険いっぱいな「法」の根底を支えているのは、「守り」という閉ざされた思想のありようである。これに対して「人々への信義で」国際間の紛争を解決しようという「日本国憲法」 前文の志は、人間の開かれた共同性を信じる思想のありようを示している。戦争と同性愛はまた別個のテーマであろうが、 戦争は閉ざされた思想の中でしか遂行されないし、同性愛の問題は開かれた思想を切り開くことの中でしか展開しないであろう。サイカーは、直面する課題を、聖書の「異邦人キリスト者の受け入れ」の問題になぞらえている。この類比は、アメリカの長老派が開かれた教会となる道を開くと信じてのことであろう。閉ざされた「信条主義」への傾向を持つ日本の「正統派」を自認する教会が、本書を手掛かりに、同性愛について本格的議論を始めることを願う。サイカーは、あの聖書解釈や伝統という堅い壁を持つ長老派教会が「開かれた論議」へと進むことを、「私の切なる祈り」だといい、監訳者も「その祈りを心から共にしたい」と訳業を結んでいる。4,600円とは、随分と値の高い本である。でも、ここまでの成果を無にすることなく、利用されることを願うものの一人である。同性愛者は現にそこにいる、その存在を受け入れるだけのことに、キリスト教はこうも道遥かな論議をしなければならないのか。キリスト教の重さを噛み締めることしきりである。

(いわい・けんさく 日本基督教団川和教会牧師)