流れない時を生きる(2002 納骨者記念式・イースター・神戸)

神戸教会墓所 2002.3.31(イースター)
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(牧会44年、神戸教会牧師 24年目、健作さん68歳)
(神戸教会牧師退任の前週)

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。(ヨハネによる福音書 12:24-26、新共同訳)

 私たちは、毎日毎日、手帳を見て、予定を付け、カレンダーで決められた時に従って生きています。春夏秋冬が繰り返し、終わりに向かって時を歩みます。人生が「流れる時」を枠組みとしていることは確かです。

 でも、私たちにはもう一つ「流れない時」というものがあるのではないでしょうか。

 ある人生の場面の、その一瞬の鮮明さが、いつまでも生き生きと蘇ってくるという時の経験です。「流れない時」を生きているという実感を持ちます。

 自分の母親の老後を人並みに苦労して看取られた方が、葬りを終わってしばらくして、ポツリともらした一言がとても印象的でした。

「今までより、母が身近な気がすることがある」

 それは、単なる思い出ではなく、新しい出会いの経験なのでしょう。

 流れる時の中では、遺影はある過去の時点の写真ですから、時が経てば古くなります。しかし、その息子さんにとっては、亡き母があの時点から、流れない時間を生き始めたのです。

 86歳の母は、10年経ったら96歳になるのではなく、86歳のままいつも語りかけるのです。

 流れない時を生きている母は、実体としての存在ではなく、関係としての存在です。

 私は、神戸教会をこのたび退任します。1978年以来ここにお納めしてある方々に関わらせて戴きました。お名前に触れ合うと、どのお一人のお名前を挙げても、その方との、ある出会いの一瞬がその時々に鮮明に蘇って参ります。これは、自分で記憶しようと思って覚えているのではなく、その方との現在の出会いなのです。

 聖書に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ 12:24)とあります。

 死ぬということは、流れる時間の出来事です。しかし、その死が、過去の出来事になってしまわないで、現在なお意味を持っているということが「実を結ぶ」ということでしょう。

「一粒のまま」とは、他の表現で言えば「自己完結的」ということです。

「死ぬ」とは、その自己完結に破れることでしょう。自己完結に破れた時、他者との関係が生まれます。愛の関係です。

「実を結ぶ」とは、現在、関係があって、意味を持っているということです。

「流れない時を生きる」とは、実を結ぶ関係にあるということです。

 イエスは流れる時では、一粒の麦として死にました。

 しかし、イエスに出会い愛された多くの人達は、イエスの死を悲しんでいくうちに、今までより一層イエスを身近に、感じたのです。流れない時を生き始めたイエスと新しい出会いを経験し始めたのです。

 その新鮮さを「アニステミー」と表現しました(アナ「再び」、イステミー「立つ」)。

 この言葉は、もう一度起きる、再び生まれさせる、という意味から「復活」と用いられるようになりました。私たちが「流れない時を生きている」ことに根源的に気付かされる迫力がイエスの生涯にはあります。

 私がこの教会に招聘されて来た時、招聘委員のお一人であった、山下長治郎さんが、お墓に来た時、

「先生もここに入るところを用意しときなはれ」

 と言われました。少し経ってからですが、手続きをしました。たまたま、山下さんの隣になりました。

 その山下さんは、神戸教会での私の働きのため、陰でよく祈って下さる方でした。1993年に亡くなられました。

 祈祷会で、私のために祈って下さる姿、声、そして焼き鳥屋で神戸教会の未来を目を輝かせて語る、その一瞬は、思い出ではなく、流れない時を生きているという思いです。


山下長治郎兄

 その山下さんの短歌にこういう歌があります。

夕ぐるるエマオの途々弟子たちの内に燃えけむゆえしらなくに

 ルカ24章のキリストと弟子たちとの出会いを歌った歌ですが、ここには「流れない時」を生きている者の姿があります。お一人お一人のお話をすれば彷彿として、思いが沸き起こって来ます。

 そういう意味で、この墓前は、多くの方との出会いが実を結んでいる場所です。ここは「流れない時」を生きる促しを受ける場所です。

 お祈りをします。

(サイト記)豊かな緑の中に佇む「神戸教会納骨堂」は小磯良平氏の設計、内装デザインも小磯良平氏によるものです。

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