イエスの最後を囲む人々(今日の説教要旨)

神戸教會週報 2002.3.24 No.12 所収

(健作さん68歳、神戸教会牧師退任まで2週間、復活前第一主日)

マルコ 15:33-47


 マルコ15章の後半は、イエスの生涯の最後が描かれている箇所です。彼を取り囲む人物を注意深く見ると、イエスの弟子はもう登場しません。イエスに従うことを挫折をしたのです(14:72)。十字架をイエスに代わって担ぐのはキレネ人シモンです(15:21)。イエスを「本当に、この人は神の子だった」(15:39)と告白するのは、ローマの百人隊長です(異邦人であり、軍隊の組織人がなおこのように告白する所に、マルコのメッセージの強調を見る研究者がいます)。

 イエスの十字架の死を「遠くから見守っていた婦人達は……イエスがガリラヤにおられた時、イエスに従ってきて世話をしていた人々である」(15:41)とはマルコの女性重視です。

 さらに、アリマタヤのヨセフによるイエスの遺体の引き取りは、イエスとの関わりの多様さを示唆する豊かな物語です。

 ここに「従ってきて」とある言葉は、「アコルーセイン」と言って、マルコ福音書では、最も数多く(16回)用いられている動詞です。「先を行く者の後に続いて歩く」という意味です。キリスト教徒の態度を表現している半ば術語的な用語です。

「わたしについて来なさい」とシモンに呼びかけて、彼がイエスの弟子になったとありますように、「弟子であること」の根本を表わしています。それは、イエスと実生活において行いを共にし、イエスの諸活動に共同して自ら参加することであります。

 イエスが十字架につけられるまで実現していく神の福音を、それぞれの自分の歴史の場において実現していくように、という意味を持っています。そのことがよく現れているのが8章34節です。あの「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」との有名な箇所です。イエスに従う生き方を真剣にするのが弟子だ、という考えをマルコはずっと示して来ました(1:18, 2:24, 6:1, 10:28)。それにも関わらず、この福音書の最後では、イエスを囲む人々の中に弟子達は不在です。

 イエスの最後を囲む人々の中に自分を見出すことができるなら、ここは大変慰め深い物語です。弟子の不在に自分を重ね合わせるなら、懺悔に耐えない物語です。そして、この物語は、その双方を、同時に、二重性をもって、語りかけています。

 マルコが、イエスに従うことを語って来て、最後に来て、弟子たることにどんでん返しをくらわせているのは、招きの確かさを逆説的に語っているのです。

 従うことは不確かであるが、招きは確かなのです。それはイエスの死が、あの激しい死が、「神の逆説」であることに、呼応しています。百人隊長の告白がそれを示しています

(岩井記)