大塚伝道師「イエスの十字架」《ルカ 20:9-19》(2002 週報・復活前)

2002.3.17、 神戸教会、神戸教会週報、復活前第2主日
(大塚伝道師による説教。健作さん退任直前の週報記録として掲載)

(牧会44年、神戸教会牧師 24年目、健作さん68歳)
(神戸教会牧師退任の月)

サイト記:本説教は健作さんのテキストではありません

ルカ福音書 20:9-19、説教題「イエスの十字架」

「イエスの十字架」が何故引き起こされたのか、ということを改めてこの受難節の時、考えている。

 ガリラヤで生まれ育った人間が、なぜ当時の宗教指導者の人々に命を狙われねばならなかったのか。

 イエスは徹底してそれらの人々の生活と信仰の矛盾を批判してきた。

 イエスの他にも、この矛盾に気づいていた人はいたと考えられるが、イエスは声をあげ、徹底して批判してきたのである。

 この声とは「神に立ち返る」という一点だったのではないか。

 ブルトマンは次のようにいう。

”神の支配のためにあらゆることを断念しなくてはならない。人は、神の支配へと決断して、そのために全てを犠牲にするか否かという、偉大なあれかこれかの前に立たされている。”(『イエス』ルドルフ•ブルトマン、翻訳:川端純四郎・八木誠一、未来社 1963)

 聖書には、この声を聞き、決断をしてきた人々の姿が描かれている。当然、当時の宗教指導者の人々にもこの声が届くようになったと想像することができる。

 彼らにとって、イエスの声は、全く正当性を欠いたものとして映っていたのではなく、何らかの”真”を見出していたように思う。

 しかし、彼らには多くの守るものがあった。権力の座・財産・そして伝統的な神観念。

 これらがイエスの声によって崩されることを非常に恐れたのではないだろうか。

 イエスの声が熱狂的な一時的なものであれば、ほとぼりが冷めるまで待つという術もあっただろうが、大きくなり続けるこの声を見過ごすわけにはいかなくなっていった。

 民衆にも自分たちにも「心の揺らぎ」を生じさせる「この人間(イエス)の存在」を消してしまえば、平穏な社会生活を取り戻すことができると考えたのではないだろうか。

「神に立ち返る」という声を受け入れず、観念的な自分たちの価値観の中に神を押し込んでいた者たちが、イエスを十字架につけたのである。


 本日のテキストに記されている「ぶどう園」は、イザヤ以来イスラエルの象徴とされてきた(エレミヤ 12:10、詩編80:8以下)。

 主人は農夫たちに3人の僕(しもべ)を送り、最後に主人の財産相続人である息子を送るのであり、収穫を納めさせようとするが、農夫たちはこれを消してしまえば、ぶどう園は自分たちのものになる、と考えて殺してしまうのである。

 ここに登場する農夫たちとは先に述べてきた宗教指導者のことである。

 イエスは彼らの矛盾を突いてきたのであるが、彼らに限ったことではない。

 わたしたちの歩みを振り返った時、イエスを十字架へと向かわせる振る舞いに満ちていることに気づかされるからである。抜け出すことができない現実がそこにある。

 わたしが彼を十字架につけたことをもう一度思い起こす時としたい。


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