子どもの死の意味を考える (2)

「子どもの文化」2002年1月号所収(子どもの文化研究所)
2005年版『地の基震い動く時 – 阪神淡路大震災と教会』所収(コイノニア社 2005)


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「流れる時間」と「流れない時間」

 この間、久しぶりに、長田区の日吉町にあるG喫茶店に立ち寄って、一息入れました。このあたりは、とても地震がひどかった所です。近くには、いまだにペーパー(紙筒を表材としたもの)の仮会堂で、被災者、特にベトナムなど外国人のための救援拠点になっているカトリック鷹取教会があって、神田裕神父たちが活動しています。喫茶店には運良くマスターのMさんがいて、久しぶりに声をかけました。

「和雄君も芳子さんも、もうすぐ7年になりますね。」
 「そうなんですよ。この間、芳子宛に、成人式の衣装の広告がダイレクトメールで送られてきましてね。人の気も知らないでって、家内が怒って破って捨てていました。」
 こんなお話が帰ってきました。
 「生まれた年月日を探し出して、ダイレクトメール用に売る会社があって、それを使って衣装店が商売しているんでしょうね。地震なんか無かった事になっているんです。」
 と自分たちの苦しみが素通りされていくことに、怒りとも、やるせなさともつかない気持ちを投げかけてくださいました。あの日、和雄君と芳子さんは、一緒に寝ていました。ご両親は二階でした。そうして二人のお子さんは帰らぬ人になったのです。あの時の様子を、現場でつぶさにお聞きしました。
 「まだ、ほんとうには、子どもたちと向かいあっていないんでしょうね。その分、毎日を忙しくしているのです。」
 お店は増築されていて、前より大きくなっていました。
 「あの子たちの思い出に建てたのです。」

 そういえば、そこは二階が倒れた場所でした。日常の長い長い営みを通して、子どもさんの死と、やがて向かい合うのだな、ここにも震災の物語があることを深く深く覚えました。


 地震以後、私は「流れる時間」と「流れない時間」の二つがあって、生きているものは流れる時間を忙しく生きているけれど、亡くなった人たちは、流れない時間をゆっくり生き始めているという気がしてなりません。

 流れる時間では地震から7年近くなって、街は綺麗になり、ルミナリエの光が人々を神戸に誘います。流れる時の中で、遺影は少し古びてきています。しかし、1995年1月17日、亡くなった子どもたちは、和雄君や芳子さんを含めて、流れない時間を、あの日から生き始めています。流れない時の中から、私たちに語りかけています。灘区のK君は5歳のままで、F子さんは12歳のままで。流れる時に生きていないので、歳はとりません。私たちが時の流れの中で、あの地震によって告げられた鮮烈なことがらの数々を、忘却のかなたに手放しそうになるとき、流れない時の中から、呼び戻してくれるのが、K君やF子さんなのです。

 「大地震子ども追悼コンサート実行委員会」(事務局、日本基督教団兵庫教区)は、地震の翌年より、毎年、追悼コンサートを続けてきています。2002年1月で、6回行われることになります。プログラムには、亡くなられた514名のお名前と、分かるかぎりの学校と住所が記載されています。
 毎年出演されるのは、作詞作曲・演奏・独唱家のクニ河内さん、新沢としひこさんです。クニさんの自作で、毎年みんなで歌っている歌に「ぼくのこと まちのこと きみのこと」という小さな曲があります。この方たちは、阪神・淡路大震災の後、この地に何度も足を運びました。子どもたちへの万感の思いをこめて歌を作ったり、歌ったりしてくださいました。

 ぼくのこと ぼくだけのこと
 あのときを
 しっている おもいだしている
 わすれないで わすれないで

「ぼくのこと まちのこと きみのこと」 クニ河内

 地震では6,432人(2002年1月現在)の方が亡くなられました。そのうち18歳未満の子供は514人です。この一人一人に物語があります。その物語は「ぼくだけのこと」なのです。「わすれないで」とは、この物語を繰り返し繰り返し語るということです。
 地震を経験して、亡くなった人を宿す街は、死者の数だけ物語が今も語られているのです。しかし、それはほんとうに密かにです。その物語に心を寄せて、「流れる時間」に生きている者が、「流れない時間」に出会うことが、毎年「追悼コンサート」を続ける意味だと思っています。


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