「招きと応答について」(2001 神戸)

2001.12.23執筆、おそらく神戸教会週報所載

(神戸教会牧師 健作さん68歳)

ルカ 2:11

 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(新共同訳)

 旧約聖書をみると「ダビデの町(ベツレヘムのこと)」から救い主が生まれるという約束が、随所に言われています(イザヤ55:2、エレミヤ33:15)。でも一方で、この町を含むイスラエルの民族は背信と不従順(マラキ2:11)を歩んだことが克明に語られています。

 旧約は神への背きの歴史を刻んでいると言っても過言ではありません。その町に「あなたがたのために救い主がお生まれになった」というのは、神と人との関係から言えば、断絶と非連続の歴史に、神の側からつながりがあったと言うことです。マタイ福音書の系図がいったんヨセフで切れて、マリアからの誕生を告げるように、人間の歴史の、神との非連続の強調の上で、イエスの誕生の記事は語られます。

 このことを、もう少し別のテーマで言い替えると「招きと応答」ということになります。神の招きはずっとあったのに、イスラエル(人間)の歴史は応答してこなかった、ということです。でも、神の招きを、時には微かに信じたり、時には全く信じなかったり、というのが旧約の歴史でした。新約聖書はその約束がイエスという方によって成就したと告げています。

 ここで大事なことは「招きと応答」という関係を理解することと、「招きと応答」の関係に入るということとは、全く別のことだ、という点です。福音書に、イエスの許に来て「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」と問う人との問答があります。

「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とイエスはたしなめます(マルコ10:17以下)。

 イエスは「永遠の命」は「関係的出来事」なのだと説いているのです。どんな素晴らしい理解も自己完結(己の義)では「救い」ではないのです。

 聖書が促している生き方の根本は「関係存在」として生きるということです。自分独りの宗教的達観ではないのです。愛、赦し、信、など聖書の基礎概念は全て関係概念です。神がその一方の関係の当事者になられていること、その「関係存在」へと入り込むようにとの招き(イエスの誕生=福音)に応えて、絶えず「関係存在」として生きることが、その招きへの応答でありましょう。

 身近な、生活経験で恐縮だが、この間、会堂のシャンデリアの整備をしていて、「招きの確かさ」と「応答の不確実さ」の比喩を味わいました。電気がきているのに灯らない。それはどういうことか。回路の不確かさを徹底して検討しました。そして灯りました。大塚伝道師と喚声を上げて喜びました。(岩井記)

「見よ、神の子羊」(2001 神戸)