ヨハネの「光」(タイトル未確認)

ヨハネの「光」

2001.8.29

ヨハネ福音書 8:12
「私は世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」


 新約聖書を読むときに気をつけなければならない点がいくつかあると思うのですが、その一つに聖書に記された文字から、あることを前提にしながら、また、あることを想像しながら読むということが重要なのではないかと思うのであります。つまり、それは、聖書の歴史的背景をもとにしながら読むということであると思います。

 聖書の読み方には、聖書を文献批判的に、他の古文書と同じように、一つの歴史文書として読むという読み方があるように思います。わたし自身は、この読み方に出会ったのが、大学に入ってからであったと思います。それまでは、聖書というものは、何か神聖なもので、批判にさらされるような文書ではないという、犯してはいけないものであるように思っていました。

 しかしながら、聖書に目を通してみると、明らかに今までの自分の読み方では、矛盾が生じてくるということに気づかされたのであります。例えば、創世記などを見てみますと1章と2章に人の創造物語が二つ描かれています。同じ文書の中にそれぞれ、違う創造物語が記されているということに全く疑問など持っていなかったのですが、よく考えてみるとやはり矛盾しているということに気づかされます。学びを深めていく内にこれは、二つのグループがそれぞれに自分自身の信仰を基に成立させて創造物語を、後に編集者が一つにしたということを知ることができました。

 また、共観福音書においても同じことが言えると思います。つまり、イエスの生き方というものをそれぞれの人が自分との関わりにおいて記しているために、独自のイエスがそこに描かれているのです。このことは、重要なことであるように思います。イエスという人を見る視点がそれぞれ、違っていても良いのではないかということが暗に記されているように思うのです。

 私自身は、聖書を読むときに、まず、新約聖書が描写するイエスとその周りに集まってきた人々が生きていた時代、また、それぞれの、聖書記者達の生きていた時代、文書化された聖書を用いつつイエスとの出会いを経験している時代(これは私たち自身も含みます)の3つの視点を大事にしながら読むことが重要であると考えています。
 
 今日のテキストは、ヨハネ福音書でありますから、独特のイエス観が記されていることに気づかされます。まず、このテキストをイエス時代に遡って読んでみるとき、果たしてイエス自身がこの言葉を本当に語ったのかということがまず、私の中にふつふつと湧いてきます。

 始めの言葉「私は世の光である」という言葉。これが、本当にイエスが語った言葉なのだろうかという疑問が生じます。ヨハネ福音書は、イエス時代を描きながらも、ヨハネ福音書を描いている著者の時代が、鮮明に浮かび上がってくる文書だからであります。つまり「わたしは世の光である」という言葉の背景には、著者が生きていた時代・思想が投影されているからであります。

 マタイにも有名な「地の塩・世の光」という言葉がありますが、「世」の概念が全く違っているように思うのであります。マタイが使う「世」は人の住んでいる世界(World)が前提にされていますが、ヨハネが使う「世」は人の住んでいる世界を超えて宇宙(Cosmos)的なものへと、秩序立てられてた世界へと目が向けられているように思うのであります。

 例えば、ヨハネ福音書1章1節などからもヨハネの世界観をみることができます。ヨハネでは、この世であえぎ苦しむイエスの姿をみることはできません。ヨハネの思想の中には、すでにこの世に勝利しているイエスの歩みが前提にされているのです。勝利者の言葉としての「世の光」なのです。1章1節から5節の間に記されている言葉の時制で一つだけ、他と違う時制が使われていることに気づきます。「輝いている」という言葉です。他は、すべて過去形ですが、この言葉だけは、現在形であります。これは、著者自身の現在への進入であると同時にイエスが現在へと進入していることが表現されているのです。
 
 ヨハネ福音書が記されたのはイエスの死後、60〜70年後だと言われています。この時代は、キリスト教とへの迫害が一番ひどかった時代であったと言われています。その中で、この言葉を、イエスの言葉として聞くとき、どれだけの力が与えられたかということは言うまでもありません。イエスを信じる群から多くの人々が離れていった時代でもあります。この時代にもイエスが働いていることが表現されているのです。

 ヨハネ11章9節-10節において「人が昼間、歩むなら、躓くことはない。この世の光を見ているからだ」とあります。「この世の光」は太陽を指しているということは明らかでありますが、同時にイエスが譬えられています。また、ここから、共観福音書との相違を顕著にみることができるように思います。共観福音書では「あなたがたは」という言葉が前提にあるのですが、ヨハネには人間の内の光という考え方が全くないのです。徹底的に救いが外部からのものであるということが強調されているのです。自分自身の努力、律法によって救われるという考え方を全く否定しているのです。光を信じて受け入れる。そのことによってのみ、命の光を持つとヨハネはいうのであります。

 光は、私たちが生きる現在にも輝いています。闇が存在するというのも明らかであるように思います。イエスという人間がこの世に現れなければ、光の存在も闇の存在も私たちには、わからなかったように思います。しかし、私たちは、イエスという光が現れることによって、この両者の存在が明らかにされてしまいました。

 わたしたちは何に従うのか、どこを歩くのかが常に問われているのではないでしょうか。


神戸教会での結婚式前 2019.3.21