2001.3.4、 神戸教会週報、復活前第6主日
(牧会43年、神戸教会牧師 23年目、健作さん67歳)
マタイ 4:1-11、ヤコブ 1:12-15、説教題「荒れ野の試み」
先週の水曜日は教会暦では「灰の水曜日」でした。
レント(四旬節、大斎”たいさい”節、受難節)の初日を、中世の西方教会では痛悔”つうかい”者が頭上に祝別された灰をかぶり懺悔の徴とした故事に因んで今でもそのように呼ばれています。
この日、私は、イエスの苦難に心を繋げるちょっとした出来事を経験しました。
昼頃から、左目が急激に痛み始めました。眼科の午後の診察が待てないほどでしたが、一応診てもらい、祈祷会の聖研を大塚先生に代わってもらって、痛みを我慢して出席はしました。
心配してくださった医師のO先生が急遽、夜間救急の眼科を探して下さり、応急処置をとっていただき、週末には何とか快方に向かうことができました。
レントの初日が痛みで始まり、それを心配してくださる方々の好意を身にしみて覚え、感謝しています。
痛い時間は長く、楽しい時間は短いものだと思いました。
さて、古来、レントの最初の日曜日の主日礼拝の聖書テキストには、マタイ福音書4章1-11節の「イエスの荒れ野の試練」が選ばれています。
復活祭までの40日間を、克己・修養・悔悛(かいしゅん)の時として過ごすテーマとなるテキストであるので、選ばれてきたと思います。
ここの三つの試練・誘惑を非常に単純化して捉えるならば、日本の経済の高度成長期のごとく人々の心を支配し、政治・経済・教育・医療・社会・文化のあり方を捉えた、力の論理といわゆる豊かさの価値観だと言えるでしょう。
それは、たいへん誘惑であり試練であるということです(聖書の”ペイラスモス”は誘惑と試練という二つの意味を持っています)。
毎日、ジャーナリズムのトップニュースを賑わしている記事は、その価値観に溺れた成れの果ての残骸であります。
しかし、それを裾野で支えてきた市民・住民に責任がないかと言えば、それにブレーキをかけえないままの”無力さの責任”というものがあると存じます。
ある意味では、戦後民主主義の責任です。
日本の21世紀は、その責任をどうとっていくか、価値観の転換の問題です。
先週の主日礼拝は「子どもと一緒の礼拝」の試験的試みをいたしました。
その中で、子どものために紙芝居『かっちゃんのやきゅう』(文・青木道代、絵・鈴木秀幸、AVACO”キリスト教視聴覚教材センター”発行)をさせていただきました。
この物語は『障碍を生きる意味 ー 共に歩む』(青木優・青木道代著、岩波書店 1997)に背景が詳しく載っています。
脊椎二分症のK君を含めた(inclusive)、創造的かつ想像的な生き方が、お友達によって繰り広げられています。
価値観の転換を荒れ野で実現されたイエスの象徴的物語に心を注ぎたいと思います。