1998.12.13、神戸教会、待降節 ③
/1995年1月の阪神淡路大震災から4年
(牧会40年、神戸教会牧師 20年目、健作さん65歳)
Ⅰテサロニケ 15:1-11
古来、イエスの来臨に心備えして、信仰を深めるための聖書テキストとして、Ⅰテサロニケ 5:1-11は、待降節に朗読されている。
三つの事に目を注ぎたい。
第一。「主の日は来る」(Ⅰテサロニケ 5:1-4)ということ。
これは旧約聖書アモス書 5:18によれば、「主の日」は「神の審判の日」として示される。
”人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。”(テサロニケの信徒への手紙 一 5:3、新共同訳)
と言われる。
これは、エレミヤ 6:14の偽預言者の「平和、平和」という気休めの言葉は必ず破れる、という思想の系譜である。
「逃れられません」(5:3)が鋭く響く。今、日本の状況で、この言葉は重く受けとめられねばならない。
第二。「わたしたちは昼に属しています。」(8節)という信仰告白的宣言の鮮明なること。
4節から10節までには古代の教会で言い表されていた信仰告白の断片的言葉がいくつも繰り返されている。
「光の子、昼の子」(4節)
「わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるよう定められたのです」(9節)
「主は、わたしたちのために死なれました」(10節)
等の言葉は、基本的に人間の現状ではなく、救いの現実の言葉化である。
テサロニケの教会にも「ひどい苦しみ」(1:6)はあった。
しかし、その現状は、「聖霊による喜び」(1:6)に包まれる現実として語られている。
信仰は救いを理解することではない、関係そのものとしての救いを受け入れることである。
「目覚めていても(生)眠っていても(死)、主と共に生きる」(5:10)
と言われている。
私たちにとって、どんな表現であれ、信仰告白は大切である。
第三。「お互いの向上に心がけなさい」(11節)
宗教が悟りや心の問題に終わらないで、隣人への愛にまで展開することは言うまでもない。
パウロは、救いの現実を語った、その後に続けて、信仰から湧き出る実践を促す。
「ですから」「従って」(4節、6節)という接続詞に自ずから力がこもっている。
「目を覚ましていなさい」(6節)とは特別なことをする訳ではない。
「あなたがたは、現にそうしているように」(11節)、信仰と愛と希望の生活を落ち着いてしなさいとの勧めである。
これは「信仰によって働き、愛のために苦労し、希望を持って忍耐している」(1:3)の継続に他ならない。
ハンセン病療養所の光明園家族教会・津島久雄牧師は語る。
「この人々こそ、切々と主を愛し、教会に仕え、病友たちを主へと導いている」
非日常における日常の奉仕に感動を覚える。
私たちもそのように目を覚ましていたい。