神は我々と共におられる《マタイ 28:1-10》(1997 週報・説教補助)

1997.3.30、神戸教会
復活日・イースター礼拝週報
同日発行、教会会報 No.147「地震と現代社会」

(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん63歳)

この日の説教:マタイ 28:1-10
「神の行動」岩井健作


 気がついて見ると、復活祭の説教テキストをマタイ福音書の復活物語から選んだことが、ここ20年近くない。

 自分ながら驚いてしまった。

 マルコ16章の物語は繰り返し読んでいる。

 一語一語にメッセージが響いてくる。

 特に、あの7節の若者の言葉は、復活の使信が新たな日常性への回帰の促しであることは、復活祭が春の芽吹きの季節であることと重なって、人生の深みを生きる力を与えられる。


”あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。」”(マルコによる福音書 16:6-7、新共同訳)


「かねて言われていたとおり」との言葉に従って、自分の人生の歩みの中で、イエスに付き心身近に語りかけ、心を燃やした場面を思い起こす。

 それは教会学校の教師であったり、出会った牧師であったり、信仰の友人であったり、母であったりする。

 それらの人たちは、主イエスの証人たちであった。


 心燃えるといえば、ルカ福音書の復活物語は「復活のイエスとの出会い」を旅という時間枠で語る。

 エマオへの旅の途上、二人の弟子たちは見知らぬ旅人と「あの人」の死の話をし、夕方に宿に着き食事を共にした後に、その旅人の姿が見えなくなった時、次のように述懐する場面である。

”二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明して下さったとき、わたしたちの心は燃えたではないか」と語り合った。”(ルカ 24:32)

 そんなことを思い起こす。


 ヨハネの復活物語といえば、墓を訪ねたマリアを思い起こす。

 イエスを探すマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか、だれを捜しているのか」と声がかけられる。

 園丁だと思っていたマリアに、「マリア」と呼ばれる声がする。

”イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。”(ヨハネ 20:16)

 このあたりは繰り返し読んだ。

 肩の力を抜いて、振り向いて出会う方、今までもどんなに慰められたことか。


 さて、マタイ福音書の復活物語。

 マルコの復活伝承にかなり手を加えている。

 地震があったり、ダニエル書から取られた稲妻や雪のような白さが主の使いを包み、女たちは、マルコのようにただ恐れるだけではなく、喜び、イエス自身が現れて「平安あれ」と言う。

 そして、何よりも、ユダヤ教側の復活=死体盗難説への再反論も加えられる。

 マタイの神学は《神共にいまし給う(インマヌエル)》ことの証しであるが、それは復活物語にも貫かれている。

 イエスにおいて、「神はいまし給う」というユダヤ教への問いかけであった。

 現代の私たちに「神が共に在す」とはどういうことか。


(1997年3月30日 イースター礼拝
神戸教会週報掲載 岩井健作)


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