『為ん方(せんかた)つくれども希望(のぞみ)を失わず − 藤村透・闘病の記録』より(3)(1993-95 往復書簡)

1995年12月15日発行、藤村洋編著

(1994年)12月24日、二人でクリスマス•イブを迎えた、和代さんから透に次のようなメッセージを贈っている。


Merry Christmas!

 今年もクリスマスを二人で迎えられたことに感謝します。
 結婚してから5回目のクリスマスですね。昨年、今年と病室で過ごすクリスマスだけど、来年のクリスマスは神戸の自宅で必ず迎えようね。

 昨年、今年、来年と3年がかりで、試練と向き合うことになりそうですね。今年を乗り切れたら、来年は今年より楽になる様な気がしているのです(楽観的カナ)。試練はそれに耐えられるだけの人にしか与えられない?と思って、来年も透ちゃんと共にがんばろうと思います。

 でも、たまにその試練の重みに耐えられなくなって、話をしたくても透ちゃんには話せなくてつらい思いをしてきました。一番話をしたい相手が、当の悩みの本人だなんてつらい事です。しかし、一番つらい思いをしているのは透ちゃんなのだから、私が支えなければね。

 透ちゃんが今まで通り、何でも話してくれること、そしてずっとそばにいてくれること。それが透ちゃんに望む私のクリスマスプレゼントです。

1994年12月24日 和代


 この和代さんの切なる願いは聞き届けてはもらえなかった。

(同書 p.190-191)


 最期が近いことを覚った私は岩井牧師に電話でお知らせをした、牧師はすぐに(名古屋に)行くと言って下さったが大晦日でもあるし家族で見守っているのでと丁重にお断りをした。しばらくして牧師からの電話が透の枕元で鳴った、牧師は「透君はかつて洗礼を受ける希望をのべていた、もし家族が希望されるならお父さんに委任することが出来るから、お父さんから洗礼を授けて上げて下さってもよい」と言われた、受話器をもったまま酸素の吹き出し音や透の喘ぎの交錯するなかで和代さんと玲子にきいた、和代さんは泣きそうな声で「そんな大事なこと私には決められません」と叫んだ、玲子は「透がなにも判らないのに」といって賛成しなかった。

 私は一瞬の決断を迫られた、そしてすべてのことを納得しながら実行してきた透に本人がなにも意志表示の出来ないまま洗礼をさずけることはこの子に相応しくないと判断し、「なにもしないことにします」と牧師にお答えした。それから間もなくあたかもすべてが終わるのを待っていたかのように透は次第に静かな呼吸になり、遂に喘ぎを止めた。

 1994年12月31日午前7時55分、最後まで希望を失わなかった戦いのすべては終わった。

(中略)

 あれほど帰りたいと願っていた神戸北町のマンションにやっと透は帰り着いた。しかしもはや喜びを表すことはできなかった。児玉先生と岩井牧師が駆けつけて下さり祈りを捧げて下さった。

(中略)

(1995年)1月2日、神戸教会で前夜式が行われた、「祈りの会」という形式で岩井牧師の奨励に引き続いて会社のお仲間の林さんが温かいお話を述べて下さった後、教会の岡田、富川両兄、透の伯父の加藤肇、叔母の榎本征子それに私が祈った。慰めに満ちた祈りの時であった。この夜、柩は前年12月に完成した別館の和室に移され友人親戚に囲まれて過ごした。

 翌3日午後1時から礼拝堂で葬儀が行われた。透と和代の結婚前のカウンセリングから二人の心に関わり、闘病の始めから終わりまで励まし続けて下さった岩井牧師の説教と祈りは真情に溢れたものだった、「短い人生だったが透がそれを充分に生ききったこと、病との戦いを意志的に成し遂げたこと、4年前にここで結婚式を挙げたこと、そして和代さんが牧師に渡したメモの中で『短い期間でしたが充実した多忙な結婚生活でした』と述べていること」などに触れられた。

(中略)

 柩の蓋を閉じるときがきた、皆様が入れて下さった花で覆われた透の顔は病みつかれもせずきれいだった、私はじっと見つめていた、「皆さんがお待ちですから」と葬儀社の人に言われて身を離した。透の足元には会社の友人が入れて下さった時刻表があった。

(同書 p.196-200)


エピローグ

 透が亡くなって2週間程経った1月12日、和代さんと私は伊丹の三菱電機を訪れ職場の皆様はじめ多くのお世話になった方々にご挨拶をした。そして16日には玲子、和代、私の3人で名古屋に残してきた荷物を取りに行った、和代さんは名古屋に残り玲子と私は荷物を車に積んでその日に帰った、雪のあとの伊吹を見ながら夕刻に(神戸に)たどり着いた。

 その翌朝、朝5時46分、阪神大震災が神戸を襲った。経験したことのない大災害だった。

 地盤のかたいところにあったためか、わが家の被害は少なかった、しかし水、ガスは途絶えたままだった、北町は正常だったので透のマンションに風呂、洗濯、水もらいに出かけた。まだ余震が怖かったので、リュックに大事な物を詰めて移動した、私のリュックには透の遺骨と2冊の日記帳が入っていた。電車が芦屋まで来るようになってすぐ、和代さんは食料を持って神戸に帰ってきた、透のいなくなった寂しさを非常時の共同生活が慰めてくれた。

 そんなある日、名古屋日赤の救援隊の方がわが家を訪問、見舞って下さった、小寺先生からぜひ安否を尋ねてくるようにとのご依頼だということだった、わが家の被害の少なさにいささか拍子抜けされたご様子だったが、私たちは先生のお心遣いに感激した。

 しばらくしてポートアイランドの市民病院の11F東の病棟を訪れた、病院だというのにまだ水も出ない暖房もないという状態だった、ナースの皆さんはセーターを着込んで通路に給水器を置いて頑張っておられた、重傷の患者を抱えてきっと大変だったのだろうとそのご苦労をお察しした、そしてライフラインの不備を献身的な努力で補っておられるその健気な姿に心の中で手を合わせた。

 震災から3週間たらずで水が出た、そして40日目にやっとガスが出た、それからさらに20日ほどして、のびのびになっていた透の50日祭を行った。お礼のご挨拶状を皆で手分けして発送し終えたのは3月の半ばだった。しばらく経ったある日、和代さんは決心したように「北町に戻ります」と言ってわが家を出た。透の遺骨と写真を持って。

 毎月の命日には北町のマンションに集まって、讃美歌を唱い祈りをしたあと食事を共にして楽しんでいる。透の机のまわりも自転車もカヌーを入れた袋もすべてそのままである。

(同書 p.203-204)


(1)(2)(3)

神われらと共にいます(1994 クリスマス礼拝説教)
「ヨブ記を読む」(1994-95)

凍てついた時間と溶ける時間 − 藤村透さんへの想い出(2004 出会い)

変革と継続 藤村洋(2002 岩井先生ご夫妻へ)

藤村洋逝去 弔意文(2010)

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