「別館建築」への感謝(1994 週報・説教補助)

1994.1.2、神戸教会
降誕節第2主日 新年礼拝
(震災の1年前)
▶️ 教会報「別館建築完工の感謝

(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん60歳)

この日の説教、列王記上 8:14-26、ローマ 12:1-2 「その道を慎んで歩む」岩井健作
週報には1993年のクリスマス諸集会の報告がある。燭火賛美礼拝の参加者は約450名。


 教会を挙げて取り組んできた別館建築が完成して、いよいよ来週は竣工式です。

 すでに印刷にまわっている「経過報告」の原稿を読ませていただき、走馬灯のように、ここ何年かの歩みが思い浮かびます。

 その中には、形が出来上がることが目的であるよりも、その経過を含めて、神の恵みを受けること、課題を担うこと、そのものに信仰の養いがある、と自らに言い聞かせてきましたが、1993年を終わり、1994年という新しい年を迎えるにあたって、そこに働く大きな恵みに感謝したいと存じています。

 今は亡き山下長治郎・特別募金委員長をはじめ、多くの方たちの厚い祈りがあってのことと、しみじみ感じます。


 さて、教会の宣教を完遂するための建物のことを考える時、いくつか聖書の中には目を留めるべきテキストがあります。

 その一つは、旧約聖書の列王記上8章の「ソロモンの神殿建設」に関わる箇所です。

「列王記」について少し説明をさせていただきますと、これは一連の「申命記的歴史書」といわれる大きな枠組みの中にあります。

 つまり、旧約聖書の「創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記」(以上「モーセ5書」)と、「ヨシュア記・士師記・サムエル記上下・列王記上下」(以上「前の預言者」)は、元来一つ一つが個々の書物ではありますが、イスラエル民族の国家がバビロニアに滅ぼされて、捕囚とされた破局の中で、悔い改めと希望をもって申命記の精神に立つ歴史家によって、資料再編の上でまとめられた歴史書だという説です。

 そのうち、イスラエル王国の部分を記したのが「列王記上下」です。

 現在、手にしている「新共同訳聖書」では、ソロモンの神殿建設に関する箇所の見出しを見ると、以下のようにあります。

・神殿建築の準備(列王記上 5:15-32)
・神殿の建築(同 6:1-37)
・宮殿の建築(同 7:1-12)
・神殿の備品作成(同 7:13-51)
・契約の箱の安置とソロモンの祈り(同 8:1-66)
・主の顕現(同 9:1-9)
・ソロモンの諸事業(同 9:10-28)

 申命記歴史家は、神殿での祭儀的意義を強調してはいません。

 むしろ、神殿を、そこに向かって祈る場所、神の不可視の現前の場所として、意味づけています。

 さらに、ダビデ以来「心にあった」ことを「手をもって」実現していくソロモンの取り組みの経過を述べています。

「口をもって約束されたことを手をもってなし遂げ」ることへの神「いつくしみ」(8:23)の働きこそ、覚えられるべきなのです。

 結果としての建物、と共に経過への感謝を特に覚えたいと存じます。


 ”ソロモンは、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして、祈った。「イスラエルの神、主よ、上は天、下は地のどこにもあなたに並ぶ神はありません。心を尽くして御前を歩むあなたの僕たちに対して契約を守り、慈しみを注がれる神よ、あなたはその僕、わたしの父ダビデになさった約束を守り、御口をもって約束なさったことを今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。イスラエルの神、主よ、今後もあなたの僕ダビデに約束なさったことを守り続けてください。あなたはこう仰せになりました。『あなたがわたしの前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、わたしの前を歩むなら、わたしはイスラエルの王座につく者を断たず、わたしの前から消し去ることはない』と。イスラエルの神よ、あなたの僕、わたしの父ダビデになさった約束が、今後も確かに実現去れますように。”(列王記上 8:22-26、新共同訳)


 ”こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。”(ローマ信徒への手紙 12:1-2、新共同訳)


(1994年1月2日 神戸教会週報 岩井健作)


1994年 週報

1994年 説教

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