独りになる勇気(1993 礼拝説教・神戸)

1993.6.13、神戸教会 礼拝説教 (前週説教)要旨

(オリジナル直筆原稿は、A4用紙で説教が17枚。牧会祈祷3枚

(神戸教会牧師15年、牧会35年、震災の1年半前、59歳)

コリント第1 3:1-9

 今朝のはじめの箇所で「霊の人に対するように話すことができず」と言っていますが、パウロが何か特別な「霊の人」という理想の宗教的人間像を持っていて、あなたがたはそこから考えるとまだ低い、ということを言っているのではありません。

 実は「霊の人」という高尚な人間に類する言葉を用いているのは手紙の相手、コリントの教会の中のある部分の人、霊的熱狂主義者です。彼らは、彼らなりのグノーシス(知識)的人間理解を自分の信仰理解に据えて、信仰は未熟者(肉の人)から完成者(霊の人)へと発展し、自分たちは「霊の人」の段階にあるといって、信仰者を序列で考えていたのです。

 それに対してパウロは1章で述べたように「イエスが十字架につけられ死んだこと、その極限の無力さこそが人間を序列なしに活かすことなのだ」と語ります。

 これは「神の愚かさ」「宣教の愚かさ」という逆説的真理で、それが「神の力」なのだ、と述べます。

 だから1−4節の「霊の人」の用語の用い方は、むしろ皮肉を含んでいます。彼らは「霊の人」という宗教的理念を語ることで逆にコリント教会の中に党派性や分争を作り出しているからです。

 それでもコリント第一の手紙はガラテヤ書のように論争的ではなく基本的に教育的・牧会的です。

 パウロは自分たち教会のリーダーを「神の同労者」と呼びますが、これは「神の手助けをしている者」という意味ではありあせん。神がイエスの十字架の低さで自身を示されたように、その孤独において、無力な指導者の立場において、神の働きに与っている者という意味です。

 日々の労苦が十字架のキリストを通して慰められるような逆説的な意味を持っているということなのです。神のみぞ知る、という働きなのです。

 教会文庫にと寄贈された本の中にあった『ごく普通の在日韓国人』姜信子(カン・シンジャ)著(朝日新聞社 1990)という本を読みました。「在日」三世が負っている日本での差別は、彼女が東大法学部出であればある程にまた際立って述べられています。差別に関わる民族的な自立と運動も自覚された上で、その生い立ちと、祖父母・父母の歴史を、到底日本人には理解されないものとしつつ、あえて「ごく普通の」と自らを表現するその勇気とユーモア、そして自然さに心を打たれました。

 私たちも自らを、熱狂でもなく、名だけでもなく「ごく普通のキリスト者」と言い切って生きる、自分独りの勇気を与えられていきたいと存じます。

(先週説教要旨 岩井)

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