『琉球王国』を読みはじめて(1993 週報・沖縄・書評・ペンテコステ)

1993.5.30、神戸教会
聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝

(神戸教会牧師16年、牧会35年、健作さん59歳)

この日の説教、ヨハネ福音書 3:1-15「風あり、いのちあり」岩井健作


 新刊にしては少し遅い紹介で、しかも読みきらないうちに、この本について何かを書くのは少し気が引けますが、読む進むほどに、この歴史家の地味で鋭い感性に感動を呼び起こされました。

『琉球王国』高倉倉吉(くらよし)著(岩波新書 1993年1月)


 著者は、浦添市立図書館 館長、沖縄歴史研究会代表幹事、NHK大河ドラマ「琉球の風」の監修・時代考証をしている方です。

 何故、心を惹かれたか、というと、ここ10年ほど私が取り組んできた「日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同のとらえなおし」というキリスト教界のテーマで問題にしていることの重要点を、沖縄史の捉え方で、沖縄側から示された思いがしたからです。


「合同のとらえなおし」に少し触れておきますと、1969年、日本基督教団は、当時の「沖縄キリスト教団」と教会同士の合同をしました。

 これは、米軍施政権下にあった沖縄が、1972年に本土復帰することに先立ち、教会も共に歩もうということで行われたのですが、国家が、沖縄の人たちが願う平和な日本への復帰とは裏腹に、米軍基地をそのままにした安保体制強化、あるいは、天皇制の押しつけに道を開く合併・吸収・同化を行ったのと同じような”質”の合同を行ってしまうことになりました。

 合同した「新しい」はずの教団は、名称も信仰告白も創立記念日も、旧「日本基督教団」のままですし、沖縄の諸教会が、沖縄固有の宣教課題としていたことにも無理解でした。


 そこで、1978年になって、「とらえなおし」が提起され、第23回教団総会で、「合同のとらえなおし」が決議されました。

 この「とらえなおし」作業をやってみると、何故、日本の本土中心の国家が、沖縄にやってきたのと同じことを、教会もやってしまったのか、という教会のあり方・信仰的体質の反省まで、きちんとしなければならないことが見えてきました。

 1941年、太平洋戦争下、日本のプロテスタント諸教派が当時の「宗教団体法」の下に合同して出来たのが「日本基督教団」ですが、その成立の動機や経過などにも、遡って反省をしなければならないところまで、諸課題が広く深く根を張っています。

 このことについては、折々学んできました。


 さて、高吉倉吉さんの本は、このことを逆にして考えています。

 どうして沖縄は、日本本土の支配・差別・同化に巻き込まれてしまったのか。

 それに巻き込まれてしまわない、考え方・生き方を養うには、どうすれば良いのか。

 このような視点から、そもそもの「琉球王国」の固有性にしっかり目を留めることへの地味な作業を、この本はしているのです。

(1993年5月30日 週報 岩井健作)


1993年 週報

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