1991年8月11日、神戸教会週報、聖霊降臨節第13主日礼拝
(神戸教会牧師14年、牧会33年、健作さん58歳)
”幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない”(ルカによる福音書 18:17)
青い空、白い雲、六甲の山並みの緑が静かに動いていく阪急電車の中、若い母親の肩越しに、赤ちゃんがしきりに隣のおばあさんにご愛想を振りまいている。
人生の波風をくぐり抜けてきたであろうおばあさんは、今までの道のりでは最大級という満面の笑顔を作って「うーん、そぉー」と応対をしている。
幼な子の微笑は輪となって広がり、生真面目が徳目の真髄であることを信じて、きっと軍隊では天皇と上官の命に服し、戦争協力をし、会社では笑いなど一切なしの第一級企業戦士であったことを思わせるような老紳士も、ついに幼な子の笑い攻勢に、口をへの字に曲げて応え出した。
それがまた可笑しいのか、車内は、クスクス、ゲラゲラという有り様である。
「子供は天国」とはよく言ったものである。
国学では「七歳までは神の子」、禅では「三尺の童子を拝す」という言葉があるが、洋の東西を問わず、誰もが、赤ちゃんの心に汚れがあるなどとは思うまい。
生後、2〜3ヶ月の幼な子の笑いを天使の微笑みと呼ぶが、これは子ども生来のありようである。
イエスは、幼な子のそのありように「神の国」を見る。
神に一切をゆだね、その関係を、息の如く感じ、風のごとく受け、自由として覚えるあり方である。
それにしても、我々大人は、なんと不自由で、固定観念が強く、息詰まる関係を作ってしまい、迷い多き存在であることか。
「三つ子の魂、百まで」という諺がある。
この中の「魂」について、心打たれる説明を読んだ。
”この諺の中の「魂」の一つが、対人関係を築く能力であり、究極的には「思いやり」であるが、その表現が「ユーモア」であると考えている。それゆえ「ユーモア」は「愛」に通ずると言われるわけである。「ユーモア」のセンスの基盤はすでに乳児期に認められ、それは生得的なもの、すなわち人間の所与のものと考えることができる。それを豊かにする子育てが、われわれ大人の役割と言うことができる。表情が明るく、笑いが多く、三歳を過ぎてから友だちを求めて積極的に遊ぶ子どもは家庭では、母親にも、父親にも「思いやり」があり、二人がいたわり合って生活しており、争いごとが少ない。”
(『子どものユーモア』平井信義、山田まり子著、創元社 1989)
著者である平井氏によれば、「子どものユーモア」に関する著作は、わが国では最初であると言う。
「ユーモア」が「愛」を基盤としているとの指摘は、デーケン神父によるが、ここにも深いものがある。
死と生、十字架と復活という矛盾の共存にその根源を見ないであろうか。
(1991年8月11日 神戸教会週報 岩井健作)

