魂としての人間 ー “プシュケー”について《マタイ 10:24-33》(1991 本日説教のために・平和聖日)

1991年8月4日、神戸教会週報、聖霊降臨節第12主日礼拝、平和聖日
(説教題)「魂としての人間」マタイ 10:24-33、岩井健作

(神戸教会牧師14年、牧会33年、健作さん58歳)


 ギリシア語「プシュケー」という言葉は、新約聖書マタイによる福音書の10章28節に出てくる。

 イエスの「語録(Q資料)」に伝承された言葉である。

 「語録」でも「マタイ福音書」でも、《迫害》を背景に解釈されている。

 マタイは、伝道者が大胆に殉教をも恐れずに宣教活動をするように、という励ましの言葉として、この句を用いている。

 私たちが人生を歩むには、いろいろな配慮や思い煩いがあるが、どちらかというと、聖書で言う「からだ」に関わることが多い。

 「からだ」は直接的には《身体》、間接的には《身のうちを守る人間関係》である。

 もう一つ根源的な「プシュケー」からものを考える訓練が少ないのではないだろうか。


 「プシュケー」の訳語を新約聖書に見てみよう。

 「命・思い・心・精神・生命・魂・胸・霊・霊魂」

 ① 人間や動物の自然的・生物的生命。
 ② 人間の感情・要求・愛情などの起こるところ。
 ③ ヘブル語「ネフェシュ」と同じく、自己自身、真の自分、内的人間、人間自身。
  神と人とに責任を負い、自由に決断する主体としての人間。
  創世記2章7節の神の息により生ける存在となったという神話が示す、関係存在。

 マタイのこの箇所は③の意味。

 人間を二分法で考えるのか、三分法で考えるのか。古来さまざまな流れがある。

 「祈るべきことは、健全な身体に健全な精神が宿ることである」と言ったのは、ローマの詩人ユヴェナリス。

 退廃的なローマが背景にある。

 必ずしも精神の優位の強調ではない。

 パウロは「霊と心とからだとを完全に守って」(テサロニケ第1 5:23)と三分法で考えている。

 彼の初期の思想である。

 参考までに「YMCA」のロゴは、三角形の標識を用いて、それぞれの一辺を、Mind(心)・Spirit(霊)・Body(体)としている。


 田辺保氏(フランス語学者、パスカル研究者)は、「プシュケー」をフランス語の「エスプリ(原義は風・息)」と関連させて理解する。創世記の「命の息」(創2:7)、「風」(ヨハネ 3:8)に近い意味である。

 「エスプリ」は定義しにくい。

 ”そこからふと、より高次の、意外な「何かを暗示しうるセンスだとでもいえば幾分近いだろうか”と田辺氏はいう。


 私たちが、魂のふれあいを持って生きるには、根源としての神との関わりを、理念的に明確にするだけではなく、生と死を包んで、風そのもののように自由に流動する原初的な繋がりに生かされる自分の発見にあるだろう。

 イエスは、それを差し迫った、権力や国家との対峙で語った。

(1991年8月4日 神戸教会週報 岩井健作)


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