1991年7月21日、神戸教会週報、聖霊降臨節第10主日礼拝
(神戸教会牧師14年、牧会33年、健作さん57歳)
”神よ、わたしの心は定まりました。…わたしは歌い、かつほめたたえます”(詩篇57:7)
先週は「詩篇の信仰に学ぶ」というテーマのもと、勝村弘也氏(松蔭女子学院大学教授・旧約聖書学)から、詩篇について教えていただきました。
現在、私たちに伝えられている150篇の詩篇を、それぞれ「嘆きの詩」「讃美の詩」という大きな文学類型によって考えることで、その詩の心に迫ることが出来ること。
また作詩の時代状況については、必ずしも特定して読み込むことが出来ないこと。
つまり、かなり精神化されていること。
例えば、今朝朗読した詩篇57編も、表題には「ダビデが洞にはいって、サウロの手をのがれたときによんだもの」と前書きがついています。
これは、サムエル記上23章19節〜24章7節の物語です。
息の詰まるようなダビデの心境に合わせて詩を読むと、詩の歴史的状況がそこにないとしても、このようは表題をつけた昔の人の心は、まことに、と思われます。
また、詩篇には、ヘブル人の世界観があって、それは我々近代人のものの考え方とは違っていること。
例えば、「死」は近代人のように生の終りとしての時間上の点として捉えられているのではなく、「生」を脅かす勢力として「病、戦争、不義、罪」などと同じく、妥協することのできない「敵」として考えられていることも学びました。
詩篇57編も、その「敵」は「わたしを踏みつける者「人の子らをむさぼり食う獅子(しし)」と表現されています。
この詩を、バビロニア捕囚時代に厳しい迫害のもとに置かれていたユダヤ人の詩と理解する解釈者もいます。
しかし、歴史的状況をどう設定するかよりも、ヘブル人のいう「敵」の勢力と同じように、今日、私たちの生きている状況で、人間としての根源的な「いのち」を脅かす力との対峙で読んでこそ、この詩の心が励ましと慰めになります。
勝村先生から学んだことの中に「アジュール」の思想というのがありました。
アジュールとは、聖域、逃れ場、を意味します。
日常我々が、鬼ごっこや野球で、陣地やベース等と言っているものです。
「駆け込み寺」というのもその一つです。
亡命の思想でもあります。
詩篇23篇、27篇、46篇、57篇の「あなたの翼の陰をわたしの避け所とします」にも、それが示されています。
価値観が一元的に締め括られてしまうと、人間の生は窒息させられます。(例えば、ファシズム、天皇絶対制、正統信仰など)
その一元化に穴を開けているのが、アジュールの思想です。
これが、強い立場の者の口実ではなく、「うなだれる」(57:6)者を支える「確かさ(定まる)」(57:7)であるところこそ、この詩の心です。
(1991年7月21日 神戸教会週報 岩井健作)