1991年9月1日、神戸教会週報、聖霊降臨節第16主日礼拝
(説教題)「生と死の緊張」岩井健作、ピリピ人への手紙 2:1-11
(神戸教会牧師14年、牧会33年、健作さん58歳)
「あなたはどこにいるのか」
この問いの根源性は、私たちの存在の根底を揺り動かし、ある不安へと向かわしめないであろうか。
旧約聖書 創世記の創造説話(創世記 3:9)に含まれるこの問いは、禁断の木の実を食べて、その責任を女に転嫁し、神の顔を避けて身を隠したアダム(人)への《主なる神》からの問いであるが、この問いの持っている《質》を、時や場が異なるからといって覆うことはできない。
また、この問いに一応の答えを持つことができたとしても、それに応えきることはできないであろう。
ただ、そのように問う方がいるという、その関係そのものを受け入れ、信じる時こそ、この問いは問いとして活きている。
聖書には、そのような性質の問いがいくつかある。
聖書そのものが、このような問いとの格闘の歴史だとも言える。
「あなたがたはわたしをだれというか」
これはイエスが弟子たちに、ピリポ・カイザリアの村で問うた問いである(マルコ 8:27)。
「あなたこそキリスト(救い主)です」という模範解答が、イエス自らによって退けられたという説話伝承を、わざわざマルコ福音書が取り入れた意味は何だったのか。
それは、この問いをどのような文言で答えるにせよ、答える人の生き方や実存に関わる応答であることを物語っているからであろう。
弟子たることとは、この問いを携えて生きることに他ならない。
私たちが、教会に繋がって、聖書を「心の糧」とし、信仰の友と交わりを持ち、礼拝を守り、さまざまの宣教活動を担うということは、神からの問い、イエスからの問いを携えて、その問いに幾重にも、答えを画きつつ、また消しつつ、生きることである、と私は思う。
その場合、聖書そのものが、そのような営みの多様さを克明に記していることに目を留め、その歴史の歩みから学びつつ生きることが求められている。
ピリピ2章1〜6節は、初代教会の「キリスト讃歌」といわれる信仰告白である。
パウロの時点で、既に固定化し観念化し教義化されていた。
パウロは、皆のよく知るこの「讃歌」にイエスの生の逆説性を表す「しかも十字架の死に至るまで」の一句を挿入(青野太潮氏の指摘)し、1〜5節、12〜18節の信徒の生活文脈の中で、この「讃歌」を克服しつつ受容した。
”おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。”(ピリピ人への手紙 2:8)
そこに目を留めたい。
そこには「あなたはわたしをだれというか」に対するパウロなりの答えがある。
(1991年9月1日 神戸教会週報 岩井健作)