市井のひとり − エゼキエル18:30-32への視点《エゼキエル18:30-32、ピリピ 2:12-16》(1991 本日説教のために)

1991年9月8日、神戸教会週報、聖霊降臨節第17主日礼拝

(神戸教会牧師14年、牧会33年、健作さん58歳)

 これはドイツでの生活を体験し、キリスト教研究をしている、早稲田大学の哲学の教授、岩波哲男氏の一文です。

 旅の恥はかき捨て流の日本人観光客の集団思考的振る舞いに、自分は違うと思っていながら、深いところでは、同質の意識であることを知らされた一場面を語っています。

 これは、岩波氏が横須賀の岩波幼稚園母の会で行った講演「子供の自立、親の独立」の中の一節です。(『旅人の思索 − 現代キリスト教思想の根底にあるものを求めて』 岩波哲男、早稲田大学出版部 1991)

 日本の社会の中では、親子・夫婦などで「最後のところは、一人ひとりの人間が他者の思惑の中で、ではなくて、一個の人間として」独立した人間に目覚めることの大切なことを、自らを省みつつ訴えています。

 もちろん、氏は『ジャパニーズ・マインド』のいうような日本人のチームワークなどのポジティブな面を否定している訳ではありませんが、集団帰属性の意識の問題点に深く触れて日本人の生き方を反省しています。


 さて、旧約聖書の中で《個人》ということを問題にした預言者はエゼキエルです。

 紀元前597年、ユダ王国はバビロニアの侵攻を受け、主だった人たちの第1回バビロン捕囚を経験します。

 エゼキエルもその中の一人であり、テルアビブに住み、同胞たちがエルサレム神殿に虚しい望みをかけて不誠実であることに対し、悔い改めを説き、神の審判を語ります。

 しかし、紀元前586年にユダが完全に滅亡させられ、第2回捕囚を経験してからは、慰めと希望を語ります。

 彼が、悔い改めは親の問題でも他人のことでもなく、一人ひとり自分のことだと強く迫ったのが、エゼキエル書18章です。今日の箇所エゼキエル書18章30〜32節はそのことを明確に語っています。


 ここでは「あなたがたはどうして死んでよかろうか」ということと「新しい心(レーブ)と新しい霊(ルーアッハ)を得よ」とが並べられています。

 この両者をつなぐものが「翻って生きよ」との促しです。

 「翻(ひるがえ)り」は、独りになる体験、自我の死の体験です。

 が、さらには神の招き、恵みに活かされる経験でもあります。

 これが一つの事柄であることを、どのように伝えるか、エゼキエルの苦心がみえます。

 エゼキエルの訴えがわかる「市井のひとり」になりたいものです。

 (1991年9月8日 神戸教会週報 岩井健作)


週報にて 1991年度「神戸教会 秋期伝道集会」案内:

1991年9月29日 講師:李仁夏(イ・インハ)(在日大韓基督教 川崎教会牧師)
説教「自分を愛するように」、講演「共に生きる これからの世界」


1991年 説教

1991年 週報

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