1991年6月30日、神戸教会週報、聖霊降臨節第7主日礼拝
(神戸教会牧師14年、牧会33年、健作さん57歳)
”主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。”(ペテロの第1の手紙 2:4、口語訳)
ペテロの第一の手紙
本書は手紙という表題ではあるが、私信ではなく、ローマ領の諸教会に宛てられた回状。
「公同書簡」の一つ。(ヤコブの手紙、ペテロの手紙 1,2、ヨハネの手紙 1,2,3、ユダの手紙 計7書簡)
この世界で迫害に出会っても、魂の救いを得たものとして、喜びに満ちた生活を全うするようにとの勧告の書。
第1部
ペテロの第一の手紙 1:3-12。萎むことのない資産を受け継ぐ者として下さったことへの感謝。
1:13-2:10。心の腰に帯を締め、キリストの出現を待ち望んで生きるように。
2:11-3:12。不当な中傷を避けるためにも為政者への服従をもって苦しみ耐え忍ぶこと。妻と夫の務め。教会で互いに悪を避けて善を行うように。
3:13-4:6。善を行って苦しむことの意味。苦難のキリスト論。
4:7-11。愛は多くの罪をおおう。
第2部
4:12-5:11。迫害が現実になった状況で、苦難を祝福と考えるように、との勧め。
本書の著者は、年代的に使徒ペテロではない。
紀元90年代、ローマのドミティアヌス帝の治世の人物。執筆場所はローマであろう。
本日の箇所 ペテロ第1 2章1節〜6節。
1節。《捨てて》衣服を脱ぎ捨てるという語義。初代教会の浸水洗礼では改心者は衣服を脱いで受洗。キリスト者となる以前の生活態度を捨てるということ。
2節。《乳飲み子》最近の改心者。
3節。ここは詩篇34篇8節の意味を含む。初代教会では聖餐式文に歌われた。
4節。後半は、6、7節に引用されているイザヤ書28章16節、詩篇118篇22節と結び合わせて受難と復活を解釈した初代教会のキリスト論。
5節。《霊の家》キリスト者共同体。(Ⅰコリント 3:9-17、エペソ 2:20-22等)
《霊のいけにえ》自己奉献。(ローマ 12:1、ピリピ 2:17、エペソ 5:2)
6節。イザヤ書 28章16節からの引用。
キリスト教信仰をもって生きるということは、苦難の歴史を刻む、ということと同義である。
現代の歴史の苦難の一つは、パレスチナ問題として担われている。
ナザレのパレスチナ人牧師、リアハ・アサール氏は、日本人の”聖地旅行”を批評して「日本のキリスト者は、なぜ、”石”を見にくるのか。何故そこで生きて戦っている”活ける石(キリスト)”に出会おうとしないのか」と言ったという。(『聖書と教会』 1991年4月号 p.27、日本基督教団出版局)
「生ける石」と出会う。
「生ける石」となる。
その意味を深く味わいたい。
(1991年6月30日 神戸教会週報 岩井健作)