あわれみは、さばきに勝つ《ヤコブ 2:8-13》(1991 本日説教要旨)

1991年6月16日、神戸教会週報、聖霊降臨節第5主日礼拝

(神戸教会牧師14年、牧会33年、健作さん57歳)


 三浦綾子著『われ弱ければ – 矢島揖子伝』(小学館 1989)を読んだ。

 矢嶋揖子(かじこ) 1833(天保4)年〜1925(大正14)年。

 女子教育、婦人運動の先覚者。熊本県に生まれる。

 林七郎と結婚し1男2女を得たが、夫の酒乱にて離婚。

 40歳で兄の看病で上京の後、東京府教員伝習所に学び、東京芝桜川小学校(現在、港区立御成門小学校)訓導となる。(この頃、妻子ある男性の子を産む)

 1878(明治11)年、揖子45歳、トゥルー夫人(ミセス・ツルー)に会い、築地新栄(しんさかえ)女学校校長となる。

 48歳、新栄教会でタムソン宣教師より受洗する。

 1890(明治23)年、新栄女学校と桜井女学校との合併による「女子学院」創設により、女子学院(現、千代田区一番町)初代院長(揖子57歳)となる。

 1893(明治26)年、レヴィット夫人来日を機に禁酒・売春禁止主張に共鳴、「日本キリスト教婦人矯風会」(きょうふうかい)を組織し、その会頭(揖子60歳)となる。

 一夫一婦制の建白書を元老院に提出、女性解放運動の先駆的働きをする。

 日露戦争に際し、慰問袋運動を起こす。

 1906(明治39)年、73歳で最初の渡米、米大統領ルーズベルトと会見。

 1914(大正3)年、女子学院院長を退職(81歳)、第2回渡米。

 1925(大正15)年、93歳没。


 矢嶋揖子の伝記については、久布白落実(くぶしろおちみ)女史によるものが何冊かある。

 今回その一冊『矢嶋揖子傳』(日本基督教婦人矯風会発行 1956)を借用して読んだ。

 同時に、三浦綾子氏の文章が心に残った。

 それは、久布白氏の触れなかった、妻子ある男の子を産んだ、という、揖子の生涯の隠された部分を軸にしているからであろう。

 「われ弱ければ」というテーマは、人間の弱さに対する神の赦しを基調としている。

 『われ弱ければ – 矢島揖子伝』(三浦綾子 小学館 1989)

 揖子の生涯には、エピソードがたくさんあるが、女子学院で校則を取り払ったということは驚きに値する。

 そこにはトゥルー夫人の人格の大きさ、また、ヨハネ8章の「姦淫の女への赦し」、自治・自律が最後に人を建てるという聖書の精神があった。

 それはまた「只一條に、馴れぬ道ながら救いの道を辿りました」という揖子のキリスト教信仰へのひたむきさであった。


「福音と律法」は、昔から、聖書のメッセージを考える大きな枠組みである。

 律法・他律・規則・約束事・けじめ・それ故に、罰・裁きはなくてはならない。

 しかし、最後には、自律を促す福音、愛、あわれみがあってこそ、人間は息づける。

(1991年6月16日 神戸教会週報 岩井健作)


1991年 説教

1991年 週報

error: Content is protected !!