1991年6月9日、神戸教会週報、聖霊降臨節第4主日礼拝
(神戸教会牧師14年、牧会33年、健作さん57歳)
”何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。”(ピリピ 4:6、口語訳)
「ピリピ人への手紙」のこの章句は、聖書の言葉の中でも、最も美しいものの一つである。
私は、この章句から、福音書の《イエスと幼な子》の場面を連想する。(マルコ 10:13-16、および関連箇所)
そしてまた《野の花・空の鳥》を指しつつ、神の信頼の中での存在への自覚を促すイエスの説教へと思いを馳せる。(マタイ 6:25以下)
しかし、実際に、このピリピの言葉を心に言い聞かせねばならない人生の状況というものは、美しいなどとはおよそ縁遠い、泥沼の苦闘の只中であることが多い。
神に委ねることとを志しつつも、思い煩いはとめどなく心を塞ぐ。
この時、「ただ、事ごとに」という言葉が力をもって迫る。
「神は細部に宿り給う」
できる限り、区切って、細かい単位で事柄を見て捉える。
そこに神の与え給う、息づく余地を見出すことから《再生》への手がかりをつかむ。
そういえば、イエスの振る舞いと十字架の死も、世界史の巨大な流れの中で細部であった。
だからこそ力をもつ。
「感謝をもって祈り」とは、その細部の恵みの発見である。
『キリスト教礼拝辞典』(岸本羊一・北村宗次編集、日本基督教団出版局 1977)の「祈祷」の項を見ると、まず「祈祷の意味」につき、祈祷を超越への衝動などという一般的宗教生活に意義づけず、「イエス・キリストにおいて啓示された神との出会いと人格的交わり」とし、「キリスト者であることと祈るということは同一のことなのである」と記述している。
次いで「祈祷の仕方」について、
① 個人の祈りを、イエスの祈り(マタイ 6:5-6、マルコ1:35, 6:46)へと向け、形骸化したユダヤ教の式文祈祷への批判の精神へとつなげ、
② 共同の祈りを、「我ら」を主語とする「主の祈り」の精神へとつなげる。
さらに「祈祷の形式」については
① 成文祈祷 ② 自由祈祷の歴史を語る。
終わりに「祈祷の内容」として、
① 賛美 ② 懺悔 ③ 祈願 ④ 執りなし ⑤ 感謝(今日の聖書箇所)を挙げている。
祈りは「主イエスの名により」とその執りなしの確かさを信じて結ばれる。
「アーメン」(ヘブル語で”真に、確かに”の意)は、初代教会以来、確信と同意を込めて、祈祷・讃美歌・信条の結尾に用いられてきた。
それを声高らかに唱和することは、”主に在る”交わりの表明でもある。
ヘンデルは「メサイア」をアーメン・コーラスで結んだ。
(1991年6月9日 神戸教会週報 岩井健作)