エッサイの株《イザヤ 11:1-9》(1990 説教要旨)

1990年12月2日、待降節(アドヴェント)第1主日、
神戸教会週報

(神戸教会牧師13年目、牧会32年、健作さん57歳)

イザヤ書 11:1-9、説教題「エッサイの株」岩井健作


 「今日は教会も”株”の話でっか、その株もうかりまっか?」
 「そりゃあ確かでっせ、買うといたらいいことありまっせ。」

 まるで価値観の違う話のやりとりだが、時として瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)が出る、というように、その価値観の転換というものが、本当に起こることはある。

 重平友美氏の『馬車馬の影をひいて』という信仰の証しを綴ったエッセイを読んだ。

 「農家の長男に生まれ、少年期からの体験によって、エコノミックアニマル的人格が形成された。脊柱(せきちゅう)骨折という、思いがけない出来事により、その実学的思想は、かえって絶望をもたらすことになった。しかし、生きる甲斐もないような者にも、差し伸べられているキリストの愛を知り、新しく”生ける望み”をもつようになった。その喜びをもって、ここにキリストの愛をあかしする」(上掲書あとがき)と重平氏は記している。

 今、同氏は生まれ育った故郷の街に教会を興し、車イスの牧師を務めている。


 「エッサイの株」は一つの信仰術語だろう。

 紀元前8世紀から7世紀にかけて、預言者イザヤは小国ユダの指導者たちへ、信仰の再生を促して、アハズ王、ヒゼキヤ王へと、彼の務めである神の叱責を語ってきた。

 しかし価値観の転換は起こるべくもなかった。

 マナセ王(列王紀下 21:2-16)に至っては、アッシリア帝国に隷属して、いかに延命を計るかに追われ、もはや言葉を語って諌(いさ)めるという相手ではないほど、人格崩壊を起こしていた。

 イザヤは、ダビデを祖とするこの王朝の滅亡を感知した。

 かつてダビデの父、無名の農夫エッサイが、神に用いられて、この王朝の”株”となり、”根”となったことを思い起こし、地上の諸々の枝枝は滅んでも、あのエッサイの株が神の審きを超える救いを宿していることを信じ、そこに週末的救いの徴(しるし)をみた。

 そして、かの有名なイザヤ書11章の預言を語った。

 古来、現実の闇にもかかわらず、神の救いの確かさを信じ待望する信仰の表現として「エッサイの株」は定着し、教会暦では、待降節の聖書テキストの一つとして読み続けられている。


 木の株は一見死んでいるようで芽を吹く。

 死と生、審きとゆるしの共存を象徴している。

 エッサイはユダのベツレヘムの出身(サムエル記上 17:12)、モアブの女ルツの孫であった(ルツ記 4:17、歴代志上 2:9-、マタイ 1:5)。

 土地を所有していた自営農民、8人の息子がいた(サムエル記上 17:12)。

 その平凡な日常が、聖書の告げる真理の証しの器であることに心をとめたい。

(1990年12月2日 神戸教会週報、岩井記)



1990年 説教リスト

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