キリスト教と天皇制(1989 神戸教會々報 ㊲)

神戸教會々報 No.125 所収、1989.12.24

(健作さん56歳)

玄関には彼らのいる余地がなかった。 ルカ 2:7


 女子大生たちは天皇に関連した問題について、ほとんど関心をもっていません、というある大学教授の言葉(網野善彦著『日本社会と天皇制』岩波ブックレット 1988.12)を信じて、きっと受講者は少ないだろうな、と思いつつ、「キリスト教と天皇制」という題を出しておきました。あるキリスト教系女子大の宗教連続講話です。

 学外から10数名の司祭や牧師たちが招かれ、テーマを掲げて3回の講話がもたれます。選択は学生自身です。55名の定員を割っているに違いないと思って行ってみると、60名の登録です。とまどったのは私の方でした。早速に「天皇」や「天皇制」についてアンケートを書いてもらって、その関心の度合を知ることからはじめました。

 まず、みんなが、すらすらと書けるのでびっくりしました。「よくわからないから知りたい」に始まり「戦前のはよくないけど、象徴は根づいているからよい」「やがてなくなるんじゃないですか」「何の感情もない。」「廃止した方がよい」「自粛や報道はゆきすぎだ」「日本の風習の一つのような気がする」……割とクールに、左右に揺れ過ぎもせず感想が述べられていました。

 さて、講話の方ですが、第1回は「戦前の天皇制」ということで、『天皇百話』(鶴見俊輔、中川六平編、ちくま文庫 1989)から、『涙の谷を過ぎるとも』などキリスト教に関わるいくつかの作品を学びました。

 第2話は「海外誌に見る天皇報道」につき、記事を紹介しつつ2点を学びました。一つは、日本人が天皇問題に関して、過去の歴史を顧みる視点を持っていないことへの批判です(『南ドイツ新聞』等)。もう一つは、自粛などに見られる日本人の画一的共同体意識(裏から見ると「村八分」現象)への批判です(『東亜日報』等)。

 第3話は、「キリスト教と天皇制との関わり」と題して、先の2点「歴史への責任」「内々の共同意識を破る共存性」への正・負の現実をキリスト教自身が内包していることを述べました。最後に、19才の女子学生が「日本人」という枠を乗り越える感性をもって「一緒に日本に住んでいる人間として」このチャンスに話し合っていこうという訴え(『ドキュメント明治学院大学 1989 学問の自由と天皇制』岩波書店 P.162)を紹介して、ゆるやかな講話を終わりました。


 キリスト教と天皇制につき考え、学び、また信仰の事柄として対峙するには様々な立脚点があります。多様な視点それぞれが、一つの切口を持っています。私は、外国誌の指摘のように、過去の歴史に罪責の自覚をも含めて、歴史の文脈の中で自分の主体的責任というものを、どうとりつつ生きるか、という点と、閉鎖的内々共同体の形成強化に補完されない人間の共存関係をどう生きるか、という2点を自分の課題にしていくところから天皇制とキリスト教の関係を捉えていきたいと思っています。

 そして、自分の十字架を負ってイエスに従う(マルコ 8:34)ことは、イエスを、その2点の先覚者として、いや神ご自身がイエスにおいてその道筋をつけて下さったことへの真実として受け入れていくことだと信じています。

 クリスマスの季節。内々の人垣の温みのある「客間」ではなく、その外なる飼葉おけの中に誕生し、疎外された者たちと共存し、固定的ユダヤ教律法主義を批判しつつ歴史に「十字架」の意義を残したイエスとの新たなる出会いを求めてまいりたいと存じます。

(サイト記)本文執筆の年初1989年1月7日に元号は「平成」に改められた。

海の彼方人あり(1990 神戸教會々報35)

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