1989年10月8日、聖霊降臨節第22主日
(当日の神戸教会週報に掲載)
(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん56歳)
イザヤ書 45:9-13、説教題「無償の深み」岩井健作
”わたしは義をもってクロスを起した。
わたしは彼のすべての道をまっすぐにしよう。
彼はわが町を建て、
わが捕囚を価のためでなく、
また報いのためでもなく解き放つ」と
万軍の主は言われる。”
(イザヤ書 45:13、口語訳)
第二イザヤ(イザヤ書40-55章を記した無名の預言者)を続けて学びます。
彼の使命は、バビロン陥落(紀元前539年)が目前に迫った捕囚期末に、捕囚民に時代の転換が近づいたことを知らせ、捕囚の民に、捕囚という厳しい運命の意味をもう一度深く思い起こさせ、懺悔と反省を求めると共に、慰めと勇気を与えることでした。
具体的には、エルサレム神殿再建のための有志を結集し、旅立たせ、バビロン捕囚民による支援体制を作ることでした。
彼の課題は、エルサレム(シオン)の回復と再建、加えてダビデ王朝を中心とする政治的自立でした。
さて、第二イザヤの前半(40-48章)は、新しい時代の到来として、ペルシア王クロスがヤハウェ(主)によって立てられたものだ、ということが強調されています。
木田献一氏(立教大学教授)の著書によれば、クロスの勢いは大変なもので、バビロニアによる被征服民だけでなく、バビロン市民からも「解放者」と言われたそうです。
今朝朗読された45章は、冒頭の引用のように、クロスによる解放はヤハウェによるものだ、と述べられている中心的な箇所です。
ところで、第二イザヤの後半(49-55章)には、クロスのことは出てきません。
ここのところをどう理解するかは、第二イザヤを読む上で大事なところです。
クロスは政治と軍事の権力者です。
たとえその宗教政策が被征服民にとって都合の良いものであったとしても、そこには政策上の思慮があったのでしょう。
決して、宗教的意味での、無償の政策ではありません。
イスラエル捕囚期の預言者は、エレミヤもエゼキエルも、政治にはかなりの関わりを持った人物ですから、第二イザヤもクロスの政治的意図を十分に知った上で、あえてクロスに宗教的意味づけを与えて、捕囚の民を励ましました。
(このこと自身、他面から見れば、政治主義的姿勢だとも言えますが)
後半は、クロスとぶつかって、その軋(きし)みの中で、一段と宗教的思考の深化を《苦難の意義》の方向へと深めたと思われます。
第二イザヤは、現実政治とヤハウェに対する信仰(宗教)との狭間に生きた人間です。
しかし、物事に政治の側で決着をつけるのではなく、信仰の側の深みへと引っ張られ、突き進んだ人でありましょう。
私たちの行動も、彼に学びたいと存じます。
(1989年10月8日 説教要旨 岩井健作)
翌週、秋期伝道集会、午後特別講演『孤独からの解放 ー 高齢化社会の心の援助』
講師:木村知巳氏(衣笠病院付牧師・特養衣笠ホーム長)
1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)