1989年10月1日、聖霊降臨節第21主日、世界聖餐日
(当日の神戸教会週報に掲載)
10月4日(水)5日(木)東京出張、
教団「沖縄合同とらえなおし」特設委員会出席
(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん56歳)
イザヤ書 41:25-42:4、説教題「道をつくる」岩井健作
”彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。”(イザヤ書 42:4、口語訳)
第二イザヤ(イザヤ書 44〜55章)を続けて学びます。
礼拝での朗読は41章25節以下に区切りましたが、聖書の単元としては、41章1節〜42章4節で1つの段落です。
ここを何遍も素読してみると、次のような歴史の情景が浮かんできます。
バビロニア帝国による”鉄の支配”は不変であると思われていたのに、歴史の変動というものは、起こるときには急激なものです。
ペルシア王クロスが立ち上がってバビロニア帝国を倒した時、その事実の前に、諸国は一体何を、そしてイスラエルの民は何を見たのでしょうか。
歴史の激動の中で「静かにしてわたしに聞け」(イザヤ 41:1)と述べられています。
”海沿いの国々よ、
静かにして、わたしに聞け。
もろもろの民よ、力を新たにし、近づいて語れ。
われわれは共にさばきの座に近づこう。”
(イザヤ書 41:1、口語訳)
そしてこの出来事は、ヤハウェが行った「主なるわたしは初めであって、また終りと共にあり、わたしがそれだ」(イザヤ 41:4)と述べられているように、歴史の深いところを神の確かな経綸(けいりん)と受け取る信仰が述べられています。
”だれがこの事を行ったか、なしたか。
だれが初めから世々の人々を呼び出したか。
主なるわたしは初めであって、
また終りと共にあり、わたしがそれだ。”
(イザヤ書 41:4、口語訳)
更に、イスラエルの「選び」の歴史が述べられ、「恐れてはならない」(イザヤ 41:10、13、14節)「わたしはあなたを助ける」と弱き者への励ましが述べられます。
”恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。
驚いてはならない、わたしはあなたの神である。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、
わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。”
(イザヤ 41:10、口語訳)
そして、その励ましの中身が42章1節以下、いわゆる第1の《僕(しもべ)の歌》と言われるものです。
なお、第二イザヤには4つの《僕(しもべ)の歌》が含まれている。
・42章1〜4節
・49章1〜6節
・50章 4〜9節
・52章13節〜53章12節
これは歴史の激変と諸国民の流動的動きの中で、小さくなっていたイスラエルには、神の選んだ《主の僕(しもべ)》が与えられているという告知です。
神はこの僕(しもべ)を通して、自らの意志を告知するという励ましです。
僕(しもべ)の使命は3つ挙げられます。
・ミシュパート(道)を諸国民に示す。
・ひたむきにミシュパート(道)を示す。
・ついに地にミシュパート(道)を確立する。
ミシュパート(道)は元来裁判用語で、裁き、定め、判決、権利等を示す言葉です。
神の行為に関しては、審判、公正、公道を表現します。
参考:アモス 5:24、イザヤ 1:21、エレミヤ 5:1
”公道を水のように、
正義をつきない川のように流れさせよ。”
(アモス書 5:24、口語訳)
それは、ヤハウェが歴史の主である事を示します。
この僕(しもべ)とは誰であるか、という議論は多面にわたっていますが、広義の終末論的救済者として待ち望まれる預言者的メシア像が想定されます。
ペルシア王クロスのように、力による世界秩序の回復とは対照的な《愛による救済》です。
叫ぶことなく、その声をちまたに聞こえさせず、傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことのなく、とは心に沁みる言葉です。
”わたしの支持するわがしもべ、
わたしの喜ぶわが選び人を見よ。
わたしはわが霊を彼に与えた。
彼はもろもろの国びとに道をしめす。
彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、
その声をちまたに聞えさせず、
また傷ついた葦を折ることなく、
ほのぐらい灯心を消すことなく、
真実をもって道をしめす。”
(イザヤ書 42:1-3、口語訳)
特に4節は、そのような生き方の持続が語られます。
このような生き方は、家庭、社会、市民共同体、運動の底力であるでしょう。
教会の交わりは、その苗床(なえどこ)であり、そのことの告知と神による招きと訓練の場であることを、心に刻みたいと存じます。
(1989年10月1日 説教要旨 岩井健作)
1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)