こころの節目《ヨハネ 15:1-8》(1988 説教要旨)

1988年3月13日、復活前第3主日、卒業感謝
(説教要旨は翌週週報に掲載)

(牧会30年、神戸教会牧師11年、健作さん54歳)

ヨハネによる福音書 15:1-8、説教題「こころの節目」岩井健作

 ”わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。”(ヨハネによる福音書 15:4a、口語訳)


 おめでたいことと悲しいことの区別というものは、人生では割合にはっきりしている。

 ところがヨハネ福音書では、イエスの告別説教の中で「よろこび」について述べられている(ヨハネ 15:11)。

 ”わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。”(ヨハネによる福音書 15:11、口語訳)

 これはイエスが弟子たちとの関係を深いところで考えていることの現れである。

 ”しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。”(ヨハネによる福音書 16:11)

 別離と自立とは表裏の関係にある。

 別離なしに聖霊あるいは助け主といわれる神の現実的な働きかけを受けることは出来ない。

 助け主に支えられた自立は喜ばしいことであるから、別離の悲しみを越えるものとして喜ばれている。

 そこには、当面のことだけではなく、深く温かい、全体性をもった神の愛が予想されている。

 それに気づくか気づかないかではなく、別離という悲しみをも包み込んでしまう「光」として、キリストを証言するのがヨハネの神学である。

 ”すべての人を照すまことの光があって、世にきた。”(ヨハネによる福音書 1:9)


 ヨハネ15章1節の「まことのぶどうの木はわたし」というイエスの言葉には、まことでないぶどうの木に対して、本物を強調するという論旨がある。

 しかし、もっと大事なのは、ぶどうの木がイエスと弟子たちとの関係を示す象徴として用いられていることであろう。

 ここでは「つながる」という言葉がキーワードとして用いられ、「父(神)と子(イエス)」「イエスと弟子たち」の関係が示される。

 幹と枝とのつながりが有機的であることは、人格関係の意識に関わる面を示唆する。

 「大工と鬼六」という日本の昔話でも、大工が鬼の名を探り出すことができたのは、森で子守唄を聞いた時だったように、そこには無意識の領域が示されている。

 イスラエルでは「悪い野ぶどう」(エレミヤ 2:2、イザヤ 5:1-3)が神に叛く民の譬えで用いられているが、むしろそれは例外的で、本来、ぶどうの木は、豊かさ、神の祝福のシンボルである。

 あえて「まこと」と言わねばならないところにヨハネの状況がある。

 ぶどうの木のイメージに、神の愛の確かさと豊かさが伝わってくる感性をこそ大切にしたい。


 今日は「卒業感謝礼拝」であるが、卒業そのものが、即時的によいことではあるまい。

 中退した人でむしろ明確な生き方をしている人もたくさんいる。

 しかし、卒業を人生の一つの節目として、日頃意識すらしていない神の愛、親しく身近な者の愛をじっくりと覚えたい。

(1988年3月13日 説教要旨 岩井健作)


3月12日(土)A兄、舞子墓園教会納骨堂にて納骨式司式。

3月12日(土)S兄、逝去。
翌13日(日)礼拝後、神戸教会にて葬儀司式。

1988年 説教・週報・等々
(神戸教会10〜11年目)

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