他人の目・自分の目《ヨハネ 12:1-11》(1988 説教要旨)

1988年3月6日、復活前第4主日
(説教要旨は翌週週報に掲載)

(牧会30年、神戸教会牧師11年、健作さん54歳)

ヨハネによる福音書 12:1-11、説教題「他人の目・自分の目」岩井健作

 ”その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。”(ヨハネによる福音書 12:3、口語訳)


 プールの傍らで、泳いでいる選手についてあれこれと批評をするが、自分は水には入らない人のことを少し皮肉っぽく”プールサイダー”というそうである。

 ヨハネの「油注ぎの物語」にも、プールサイダーが登場する。

 イエスに対して感謝の香油を注ぐマリヤの行為につき、まったく別な観点の、貧しい者への施しを持ち出すユダに対して、ヨハネの批評はなかなか手厳しいものがある。

 ユダはマリヤの携えてきた香油を300デナリと値踏みした。

 この香油は「ナルド」のもの(インドなどに産する植物、その根から香油をとる)であり、葬りの時に用いる高価なものであった。

 しかし、香油は香油であっても、その本来の目的に用いられなければ意味がない。

 いつの時代にも、物をその本来の用途ではなく、経済的価値でしか見ない人はいる。

 ユダもその一人であったのかもしれない。

 物が物として意味を持つのは、”関係の印”である時だろう。

 葬式における故人への関わりが香油をもって示されるとしたら、香油として本来の意味を回復する。

 イエスはマリヤにそのような関わりを起こさせた。

 パリサイ派の敵意という危険をくぐり抜けて、ベタニア村まで出向いて「ラザロを助けて」というマリヤの切なる叫び(ヨハネ 11章)に応えた。

 イエスの身の危険を察したマリヤは、イエスの死を想って、イエスと関わっている。

 その時、香油は経済的価値という域を超えてしまっている。


 死(受難)を介して、関係が新たに開かれるというのは、ヨハネ福音書の基本的テーマである。

 ”一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。”(ヨハネ 12:24、口語訳)

 これもイエス自身のことを指している。 

 ヨハネ3章14-16節なども、十字架の死にあげられるイエスを含めて、神は独り子を賜ったと表現している。

 ”神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”(ヨハネによる福音書 3:16、口語訳)

 少なくとも、ユダが香油を金額に換算するような見方は「死」を媒介することのないものである。

 受難を恐れないで、イエスがラザロのところへ出かけたことが、マリヤの油注ぎの根本にあるとしたら、ここでもヨハネの根本テーマ、「十字架の死即栄光」が活きている。


 この箇所のユダのイエスへの関わりは、受難や死を介していない。

 それに比べて、マリヤの関わりはそれを介している。

 だから、物(香油)が「関わりの印」となる。

 受難や死を介しない関わり、つまり「自分の十字架」を負わない関わりは、イエスと無縁である。

 そこでは、香油は香りを放たない。

 香油が香りを放つ生き方を大切にし、”エコノミック•アニマル”からの解放を得たい。

(1988年3月6日 説教要旨 岩井健作)


3月8日(火)第10回高齢者問題研修会、於神戸学生青年センター
主題『恵みとしての老い』蛯原紀雄(清鈴園園長)


1988年 説教・週報・等々
(神戸教会10〜11年目)

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