イエスのやさしさ《ヨハネ 8:1-11》(1988 説教要旨)

1988年2月21日、降誕節第9主日
(説教要旨は翌週週報に掲載)

(牧会30年、神戸教会牧師11年、健作さん54歳)

ヨハネによる福音書 8:1-11、説教題「イエスのやさしさ」岩井健作

 ”罪のない者が……石を投げつけるがよい”(ヨハネ 8:7、口語訳)


 胃にやさしい痛み止め、手にやさしいカメラ、やさしく走ろう等、CMや標語は「やさしく」づくめである。

 やさしさの時代という感じがする。

 「にんべん」に「憂うる」と書いて「優しい」という漢字を説明し、その意味を語ったのは、作家・高史明(コ・サミョン)氏だったと思う(『生きることの意味 – ある少年のおいたち』高史明、筑摩書房 1986)。

 しかし、「やさしい」とは我々が思っているような意味とは少し違うことを指摘している人がいる。

 荒井献氏(東京大学教授、西洋古典学)は、『「同伴者」イエス』(新地書房 1985)の中で、古典語では、日本でも西洋でも、「やさし」あるいは「プラーユス」は、自分の身に降りかかっている過酷な現実に耐える、という意味だったという。

 なるほど、国語辞典を引いて見ると「やさし」は、身も痩せ細るような思い、恥ずかし、となっている。

 それが現代語では、細やかで柔らかな感じ、そして人が人を憂うる、というように、互いに思いやる気持ちに転化したのは、用法の変化であるという。

 荒井氏は、新約聖書の有名な句、「柔和な人たちはさいわいである」(マタイ 5:5)についても、ここを「心のやさしい」という意味に理解してしまうのは、マタイの時代の言葉使いであって、元来は「柔和な」は旧約聖書の「耐え忍ぶ(”ガナーン”)」という言葉の意味を含んでいるという。

 荒井氏の主張は
 ① 「やさしい」は元来、古典語では、社会の下層の人が身も細るような現実に耐えることを意味していた。
 ② それが上層部の人が、下の人を思いやる気持ちへと転化した。
 そこで、元来の①の意味を取り戻すことが大事だということである。

 社会的文脈を離れて、単に人と人との関係だけを切り離して「やさしい」を捉えてはならないという。

 この指摘は大切である。

 さて、今日の箇所であるヨハネ福音書の「イエスと姦淫の女」の物語は、「イエスのやさしさ」を最もよく示した話として伝えられている。

 姦淫の現場で、捕らえられた女を、ユダヤ律法に従って「石打ちの刑」(レビ記 20:10、申命記 22:22-24)にするか否か、という問いは、どちらに答えても、イエスを陥れるための問いであった。

 こうした水準の問いは、究極的にはイエスへの殺意に繋がっていた。

 イエスが黙っていたことは、十字架の死の沈黙へと質的に繋がっている。

 「罪なき者、石にて打て」というイエスの答えに、一応は散じたからといって、彼らの敵意が無くなったわけではない。

 他方、女の社会的状況までも含めて、彼女の立場と心情に想像力を巡らせるイエスは、彼女を帰らせる。

 ここには十字架の死を現実に耐えつつ、なお他者に言葉をかける人の姿がある。

 そのやさしさが我々の心をおおう。

 我々もこの意味のやさしさに向かって、イエスに従っていきたい。

(1988年2月21日 説教要旨 岩井健作)


1988年 説教・週報・等々
(神戸教会10〜11年目)

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