一緒に行く《出エジプト 33:12-23、ルカ 24:13-15》(1988 週報・説教要旨)

1988年1月24日、降誕節第5主日
(説教要旨は翌週週報に掲載)
教団常議員会出席:26日(火)〜28日(木)
次週、教区交換講壇プログラムにより山崎教会講壇

(牧会30年、神戸教会牧師11年、健作さん54歳)

出エジプト 33:12-23、ルカ 24:13-15、説教題「一緒に行く」岩井健作

”主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう。”(出エジプト 33:14、口語訳)


 『出エジプト記』には、エジプトで奴隷であったイスラエル民族が、指導者モーセによって導かれ、その地を脱出、荒野の放浪を経て、カナンの地を制服したという物語が記されています。

 このエジプト脱出は、紀元前1260年頃、ラメセス2世の統治時代です。

 最近の通説は、エジプト脱出はこの民族の一部であり、他はエジプトと関わりなく、平和的に漸次(ぜんじ)遊牧生活から農耕生活に定着・移行していって、これが「脱出組」と一緒になって、契約共同体の部族連合(アンフィクチオニー)を形成していった、との仮説が立てられています。

 「脱出」は、国家の支配・管理(奴隷状態)からの周縁・辺境への脱出であり、そのエネルギーが「ヤハウェ(主)信仰」であったとするならば、後々、部族連合であったのにサウル・ダビデ・ソロモン王が世襲制となって支配する国家が形成されたことは、歴史的には発展ではなく、むしろ「ヤハウェ信仰」からの逸脱であったと捉えることができます。

 預言者の活動は、そのような意味で、王国が失っていったものへの回帰の促しでした。

 出エジプトは、自分たちの政治的力でできたことではなく、唯一の主(ヤハウェ)なる神の導きによる救いの出来事でした。

 その「救いとしての脱出」からエジプトへと逆戻りする力が、イスラエル民族の内側には絶えず働きました。

 いわゆる「エジプトの肉鍋のかたわらへの郷愁」や「金の子牛への偶像礼拝による安堵」です。

 出エジプトの指導者モーセの不安と戦いは、民の心のこのエジプトへの逆戻りの危機でした。

 モーセは「わたしは一体何者でしょう」と言って、指導者の任に耐えないことを申し述べますが、ヤハウェの答えは「わたしは必ずあなたと共にいる」(出エジプト 3:11)でした。

 ”モーセは神にいった、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつわかしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。”(出エジプト記 3:11-12、口語訳)

 モーセの不安と民の逆戻りの心とは、後代のイスラエル民族の信仰の歩みの原型でした。

 信仰の歩みは、絶えず逆戻りの危機との戦いです。

 何が難しいかと言って、神の前での自己相対化の視点の獲得(悔い改め)くらい難しいことはありません。

 それは「一緒に歩む神」にその都度委ねて生きること以外にないでしょう。

 人は、離れた関係はよく見えますが、自分が直接入り込み、組み込まれている関係はなかなか見えないものです。

 「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」以外にない関係とはそういうものです。

 ”すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。”(コリント第一 13:7、口語訳)

 エジプトの旧世界を脱出して、新しい関係に生きることは、歴史を一回性の脱出として捉えることなくしては不可能です。

 失敗をも含めて、神が一緒に歩んでくださる方向へと歩んでいきたいと存じます。

(1988年1月24日 説教要旨 岩井健作)


1988年 説教・週報・等々
(神戸教会10〜11年目)

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