創造者のもとに憩う《創世記 1:1-8》(1988 週報・説教要旨)

1988年1月17日、降誕節第4主日
(説教要旨は翌週週報に掲載)

(牧会30年、神戸教会牧師11年、健作さん54歳)

創世記 1:1-8、説教題「創造者のもとに憩う」岩井健作

”はじめに神は天と地とを創造された。”(創世記 1:1、口語訳)


 「七転び八起き」という諺がある。

 幾度も失敗しながら、それでもあきらめないで、その度に心を奮い起こして、最後には成功するという人生経験を言っている。

 これを一つの民族について言えば、ユダヤ民族などは「七転び八起き」の民族であろう。

 創世記1章1節の言葉は、この民族の何番目かの「転び」の体験の中での起き上がり宣言でもある。

 創世記1章から2章初めまでの天地創造物語が「祭司資料」に属していることは、今や旧約聖書を少し学ぶ者にはよく知られたことである。

 この「祭司資料」の成立の背景には、強大国ペルシア帝国の支配下にあって、政治的独立の回復が不可能となったユダヤ民族が、宗教的「教団民族」として生き残っていった事情がある。

 紀元前587年、バビロニアにより滅亡させられ、その後40年間のバビロン捕囚を体験したユダヤ民族の指導者たちは、エルサレムに帰還した後、エルサレム神殿の再建と律法遵守の二つの柱で結束を固めた。

 ペルシア帝国は「諸民族同化政策」をとっていたから、当然ユダヤ民族の生き方はこれと衝突するところとなった。

 民族同化政策は、一見普遍主義のようでいて実は民族の独自性と自立性を奪うものであった。

 近代史では、日本帝国主義が「八紘一宇」の普遍主義に基づいて民族同化政策を行い、反面、朝鮮民族の土地、言語、氏名、文化を奪った暗い歴史がある。

 このような政治環境で神殿を中心に結束して記されたのが「創造物語」である。

 バビロニアの創造物語を原型としているが、主神マルドゥクが混沌の怪物ティアマットを倒すという神話は止揚されて、光に始まり全ては被造物として捉えられ、一切の偶像は否定され、人間は神の似姿を持つ「神のかたち」であるとの主張がなされている。

 そして、祭司の指導の元、祭儀としての礼拝が捧げられる中で、ペルシアの同化政策に対抗する。

 「はじめに」(創世記 1:1)の一句は、イスラエル民族の堂々たる信仰告白である。

 神は民族の「転び」の危機の中で、信仰告白をなさせ給う。

 信仰告白は「七転び八起き」の中で獲得する言葉である。

 最近、読んで心に残っている書物に『夕あり朝あり』(三浦綾子、新潮社 1987)がある。

 1972年に96歳で亡くなった、ドライクリーニングの創始者・五十嵐健治の伝記小説である。

 五十嵐は、少年の頃、天下の金持ちを夢見て、逆に「七転び八起き」して無一文になり、放浪の末、死を覚悟したところで、キリスト者・中島佐一郎に出会い、創世記1章1節を説き明かされて、神に出会う。

 五十嵐19歳の時であった。

 危機の中から再起していく、転換点にこの聖句が胸に刺さるというところが、劇的であった。

(1988年1月17日 説教要旨 岩井健作)


1988年 説教・週報・等々
(神戸教会10〜11年目)

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