小さき者の友イエス《マタイ 11:25-26》(1987 説教要旨)

1987年5月31日、復活節第7主日
(翌週の神戸教会週報に掲載)

(牧会29年、神戸教会牧師10年、健作さん53歳)

マタイによる福音書 11:25-26、説教題「小さき者の友イエス」岩井健作

 ”そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。”(マタイによる福音書 11:25、口語訳)


 今朝はマタイ11章25節の言葉から学びます。

 まず、主な三つの言葉について考えます。

 第一は、「父よ」というイエスの祈りの呼びかけです。

 この祈りの伝承は、はじめイエス語録(Q資料)にまとめられる段階でアラム語からギリシア語になったので、元々はアラム語の「アッバ(お父さん=幼児語)」であったと考えられます。

 当時、ユダヤ教で祈りにこの語彙を使用した例は他に見当たらないそうですから、幼な子のごとき心でイエスが祈りをしたことが想像されます。

 第二は、「知恵者・賢者」です。

 当時は、律法の専門家・教師を意味しました。

 第三は、「幼な子」です。

 新約聖書には、広く”子供”を示す語彙が13種類ありますが、この箇所の「ネーピオス」は、愚か者・未熟者という、マイナスイメージの表現で、律法を知らぬ無教養な人たち、地の民(アム・ハーレツ)として軽蔑されていた人たちを指しています。

 孤児・寡婦・捕虜・病人・貧困者・障害者など「小さい者(田川訳)」たちを意味しています。

 このように理解すると、この祈りの伝承断片は、賢者・知者には相当毒っ気のあることが分かります。

 毒と薬とは、隣り合わせのようなものです。

 だから毒であれば、また薬にもなります。

 《毒にも薬にもならない》言葉ではない、ということが大事です。

 私たちがこの句を読む場合、毒気を抜いて読んでいることが多いのではないでしょうか。

 例えば「幼な子のような素直な心に信仰の模範がある」との一般的教えとするならば、このテキスト固有の語り掛けは響いてこないでしょう。

 自らを「小さき者(父に対する幼児)」とされたイエスであればこそ、「小さき者」に「神のみこころ」が示されているという洞察がありました。

 イエスもまた祈る以外に解決の道を見出し得ない、寄る辺なき者であったからこそ、寄る辺なき者の友であったのです。

 《苦難の共有者》間のつながりとして、この祈りは存在します。


 北海道の家庭学校、谷昌恒校長の随筆集『ひとむれ』第5集(1983-1986年の文集、評論社 1987)の中で、谷氏は社会への再生に励む少年たちに「生きるということは不平等に耐えることだ。不平等に耐えることは実は人間は一人一人違うのだという事実を素直に受け入れることだ」と言っています。

 聖書が言う「小さい者」ほど、不平等に耐えねばならなかったでありましょうし、またそのような者こそ、素直に祈ったのだと思います。

 自分の中の「小さい者」と重なる部分や意識は大切にしたい、また今不平等にある人たちの意識は大切にしたい。そこにイエスは在まし給うのですから。

(1987年5月31日 説教要旨 岩井健作)


1987年 説教・週報・等々
(神戸教会9〜10年目)

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