1985年12月22日、待降節第4主日、
クリスマス礼拝(214名)、洗礼式・聖餐式、
午後、愛餐会(145名)
(説教要旨は翌週週報に掲載)
(牧会27年、神戸教会牧師8年、健作さん52歳)
ミカ書 5:1-4、説教題「ベツレヘムの牧者」岩井健作
”しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから、わたしのためにでる。”(ミカ書 5:2、口語訳)
このミカ書の言葉は、マタイ2章の有名なイエス誕生の物語に引用されています。
けれどもマタイ的変形が施されています。
それは「ベツレヘムよ、お前は最も小さい者ではない」(マタイ 2:6)となっていることです。
この意味を考えるところから、今年のクリスマスのメッセージを聞き取っていきたいと存じます。
ミカの論旨はどういうことでしょうか。
「ミカ」は紀元前700年ごろ、アッシリア帝国が中近東を支配していた時、エルサレム郊外のモレシテの町で農民・牧畜民の中から現れた預言者です。
エルサレムでは経験していなかった、アッシリア侵攻の際の戦場の破壊を我が身で知っている人です。
その視点から都市エルサレムの富める者や支配階級の横暴を厳しく批判し、神の審きを語りました。
同時代エルサレムにいた預言者”イザヤ”と思想はほぼ同じですが、その生活から滲み出る言葉の鋭さは独特です。
そんな中から出るメシアの出現を語ります。
ですから、ベツレヘムは「この世の弱い者、身分の低い者、軽んじられている者、無きに等しい者」(第一コリント 1:26以下)というパウロの言葉で示されるように「小さな者」でなければなりません。
だからこそ、神からの救いの到来が、驚くべき出来事なのです。
ところがマタイは、イエスはダビデの家系だから小さな者ではないのだ、と変質させました。
だから、その変質をくぐりぬけて、ミカをクリスマスに読む意味は大きいと思います。
小さい者、弱い者、疲れている者こそ、救いを待ち望むのです。
それはまた、権力の渦巻くエルサレムからではなく、小さいベツレヘムからの視点です。
東京からではなく、山谷・寿町・生野・釜ヶ崎から、またそれに類する対比の中での視点です。
佐藤州男さんの童話『イモ姉ちゃん』(日本キリスト教児童文学全集 別2所収)を読みました。
中学を出て港町の保育所の給食婦をしている菅井雪子さんはとても心やさしいお姉さんです。
お話は、成人式の日にいろいろ理由があって晴れ着を着なかったけれども、蔑んで視る周りの目を振り切って明るく生きているという小さな小さな出来事です。
読んでいるうちに、そこにも「小さなベツレヘム」につながる思いがあると感じました。
ミカの示すベツレヘムを忘れることなく、クリスマスを迎えたいと存じます。
(1985年12月22日 神戸教会 岩井健作)
1985年 説教・週報・等々
(神戸教会7〜8年目)